憲法特集
私の憲法論チャンネルは、石破政権の重要テーマでもある「憲法改正」に焦点を当て、その必要性を論ずる特設チャンネルです。
2024年1月15日号 週刊「世界と日本」第2261号 より
現実味を帯びてきた「自衛隊の憲法明記」
国士舘大学客員教授 百地 章 氏
《ももち あきら》
昭和21年、静岡県生まれ。昭和46年、京都大学大学院修了。京都大学博士(法学)。専門は憲法学。日本大学名誉教授。比較憲法学会元理事長、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(共同代表・田久保忠衛、櫻井よしこ)幹事長。産経新聞「正論大賞」受賞。著書に『日本国憲法 八つの欠陥』(扶桑社新書)など。
昨年10月の臨時国会冒頭で、岸田首相は「憲法改正は先送りのできない重要な課題であり、国会の発議に向け条文案の具体化など積極的な議論が行われることを期待する」と述べた。にもかかわらず一向に進まなかった改憲論議が、12月の会期末を迎えにわかに動き出した。衆参の憲法審査会で、改憲草案の取りまとめや作業グループの設置を求める声が相次いだ。
テーマはこれまで緊急事態条項が先行していたが、自衛隊の憲法明記についても実現の可能性が出てきた。岸田首相も自衛隊の憲法明記にはつとに強い関心を示しており、今後、一気に条文案の取りまとめが進む可能性もある。
「反撃能力」にかける岸田首相の思いは?
国連の常任理事国ロシアによるウクライナ侵略と核による恫喝、台湾の武力統一を諦めず、その時期を虎視(こし)眈々(たんたん)と窺っている同じく常任理事国の中国、さらに北朝鮮による核開発や弾道ミサイルの発射と、先の大戦後構築された国際連合を中心とする国際秩序は大きく揺らぎ初め、戦後最大の危機を迎えている。
そのような中で、「平和を愛する諸国民〔後の国際連合〕」にわが国の「安全」のみならず「生存」まで委ね(前文)、第9条で一切の戦力の保持を禁止した日本国憲法も、当然、根底からその妥当性が問われなければなるまい。国民の多くが現実的な憲法改正案としての「自衛隊の憲法明記」を支持しているのも当然であろう。
岸田首相は、総理就任以前から反撃能力の必要性に言及しており、外務大臣であった平成29年7月、一時、防衛大臣を兼務したこともある。その防衛相時代に、岸田氏は土日返上で東京・市ヶ谷の防衛省に通いつめて防衛問題に取り組んだという。そしてテーマの一つが反撃能力であった(産経新聞、令和4年12月18日)
だからであろう、昨年11月10日、自衛隊の憲法明記を求める学生大会が国会の議員会館で開かれた折、岸田首相は学生たちにエールを送っただけでなく、学生たちの報告に最後まで熱心に耳を傾けていた。
自衛隊明記の意義と効果
自衛隊明記の目的は、第1に、「自衛隊の保持」を憲法に明記することによって、自衛隊違憲論を解消すること、第2は、自衛隊を「法律上の存在」から「憲法上の存在」に「格上げ」し、その「法的安定性」を高めること、そして第3が主権者国民による憲法改正のための国民投票によって自衛隊を憲法に明記し、自衛隊の「民主的正当性」を高めることにある。
他方、期待される自衛隊明記の「効果」の第1は、これによって「自衛隊の名誉」が回復されることである。またこの改正は、わが国を取り巻く厳しい国際情勢の下で、或いは災害派遣時の厳しい条件の中で、四六時中、365日、過酷な任務を黙々として遂行している自衛隊員の社会的地位を高め、その劣悪な待遇の改善や向上を図るきっかけになろう。それによって自衛官の士気と誇りも一層高まると思われる。
第2に、主権者国民が自らの意思で憲法を改正し「自衛隊の保持」を憲法に明記することは、「自分の国は自分で守る」との日本国民の意思と決意の表明であり、これによって「対外的・心理的抑止力」は間違いなく高まる。
一昨年12月、岸田内閣は防衛3文書の改定を行い、「反撃能力」と防衛費のGDP比2%への引き上げを表明したが、これだけで米国のウォールストリート・ジャーナルは「『眠れる巨人』日本が目覚める」と題する注目すべき社説を載せた(19日)。これをみれば、自衛隊明記の為の憲法改正が、中国、北朝鮮、ロシア、韓国による軍事的脅威や領土的野望に対する大きな牽制力になるであろうことは間違いない。
3番目の「効果」としては、自衛隊を憲法に明記するための国民投票運動が全国で展開されることによって、国民の防衛意識は高まり、国力も増強されよう。
速やかに4党で条文案の作成を
自由民主党と日本維新の会は自衛隊明記の改正案(たたき台素案、原案)を作成し、公明党と国民民主も自衛隊の憲法明記には賛成している。従って敢えていえば、後はその書きぶりや条文の置き場所などをめぐる議論を残すだけであり、その気になれば原案の作成はさほど難しくないはずだ。考えようによっては、たった1条で纏められる自衛隊の明記の方が、複数の条文にわたる緊急事態条項より容易であろう。
12月7日の衆議院憲法審査会では、中谷元与党筆頭幹事も「自衛隊の憲法明記という点では、ほぼ合意が形成されており、条文化を見据えた場合、残る論点は記述の仕方といったテクニカルな点だけといっても過言ではない」と発言している。これは注目すべきだろう。
自民と日本維新の案は「9条」の後に「9条の2」を置き、自衛隊の保持を明記するものだ。
これに対して、公明党は内閣総理大臣の権限を定めた「第72条」に首相の自衛隊最高指揮監督権を、国民民主党も妥協策として「第5章 内閣」の中に自衛隊の保持を明記する案を提示するようになった。
となれば、4党の合意を取り纏めるためには、思い切って「第72条の2」に「内閣総理大臣の自衛隊最高指揮監督権」を定め、そこに自衛隊の目的を明記した自民党案を盛り込むのが最も現実的かつ妥当ではなかろうか。ちなみに、自衛隊明記案を提唱した安倍元総理の発言の中には、「9条の2」といった言及は見当たらない。
この点、明治憲法は第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定め、米国憲法も第2条2節で「大統領は、合衆国の陸海軍…の最高司令官である」と規定している。その意味では、第72条の2に「内閣総理大臣は自衛隊の最高指揮監督権者である」旨定める方が、第9条の影を引きずる9条の2案よりも相応しい気もする。
岸田首相は12月6日の自民党憲法改正実現本部において、「党派を超え改憲案の取りまとめを」と指示しており、本年1月下旬からの通常国会で一気に自衛隊明記案の取りまとめが進むことを心から期待したい。
2023年10月16日号 週刊「世界と日本」第2255号 より
LGBT理解増進法成立
-過激な条例是正する明確な指針を-
国士舘大学客員教授 百地 章 氏
《ももち あきら》
昭和21年、静岡県生まれ。昭和46年、京都大学大学院修了。京都大学博士(法学)。専門は憲法学。比較憲法学会名誉理事(元理事長)、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(共同代表・三好達、田久保忠衛、櫻井よしこ)幹事長。産経新聞「正論大賞」受賞。著書に『日本国憲法 八つの欠陥』(扶桑社新書)など。
自民党内の保守派議員の間に深刻な亀裂をもたらし、岩盤保守層といわれる国民の自民党離れを惹き起こしてしまったLGBT理解増進法(以下、理解増進法)が、6月に制定されてから3カ月になる。この法律が今後もたらすと思われる危険性を危惧する読者も少なくなかろう。
確かに、危険が皆無となったわけではない。しかし結論を先にいえば、当初国会に提出されるはずだった「差別禁止法」は、その後の自民党内における2度の大修正によって「骨抜き」となり、推進派の立憲民主党や共産党が反対したほどであった。つまり最悪の事態は回避できた。それどころか大きく改善されており、この法律を武器にすれば、今後、全国の過激なLGBT条例を是正していくことも可能だ。
また、理解増進法はあくまで「理念法」にとどまり、自治体、事業主、学校等に具体的な施策を命ずるものではない。それ故、法律の内容を正しく理解し、賢明に対処していく必要がある。
2度にわたる画期的な修正
自民党は令和3年4月、ジェンダーフリーとは全く異なる「理解増進法案要綱」を発表した。ところが稲田朋美議員主導のもとに、同年5月に作成された法案は「性自認を理由とする差別は許されない」とする実質的な「差別禁止法案」となった。
今春、同党の特命委員会に提出された法案は、かつて自民党の総務会で了承見送りとなったこの稲田案であった。
この「差別禁止法案」を本来の「理解増進法案」に押し戻したのが古屋圭司議員や新藤義孝議員らである。「性自認」は「性同一性」という語に、「差別してはならない」が「不当な差別はあってはならないとの認識の下に」に変更され(本年5月12日、第1回修正)、これにより推進派による「差別」糾弾活動を阻止することが可能になった。
この修正について、推進派の朝日新聞は「LGBT法案 自民骨抜き」の大見出しのもと、第2面の半分近くを割いて批判を展開し(5月13日)、毎日新聞も「保守派配慮で先祖返り」と批判している(同日)。
5月15日には民間の保守陣営から自民党などに4点の修正の要望がなされ、これに応えて26日には日本維新の会と国民民主党から、以下のような画期的な修正案が発表された。㈰「性同一性」を「ジェンダーアイデンティティ」に変え、㈪ 教育は「保護者の理解と協力」が必要とする、㈫「民間団体への支援」を削除、㈬「全ての国民が安心して生活できるよう留意すべである」との文言を加える、など計5点修正したものである。
第2回目の修正は6月9日、自民・公明両党が維新・国民両党の修正案を「丸呑み」し、さらに ㈰「保護者の理解と協力」が「家庭及び地域住民等の協力」に変更され、㈪「政府は必要な指針を策定する」の文言が挿入された。その結果、最悪の事態は回避され、政府が必要なガイドラインを提示することさえ可能になった。この最終案に対して、朝日新聞は「LGBT法案変質」と憤慨している(6月16日)。
理解増進法は「女性スペース」の侵害認めず
この理解増進法の制定に当たって、最も心配されたのが「女性スペースの保護」という問題であった。
近年、女装した男性が女湯に入浴しようとしたり、女性用トイレに侵入したりする事件が相次いでいる。その大きな原因の1つに、全国各地で制定されている過激なLGBT差別禁止条例や、これを無責任に喧伝(けんでん)し煽ってきた多数マスメディアの影響が考えられる。
大阪府や埼玉県などの条例を見ると、「性自認」の語が用いられ、「性自認者」に対する差別の禁止がうたわれている。しかも「性自認とは、自己の性別についての認識をいう」と簡単に定義されているだけだ。これでは、男性でも自分が女だと言い張れば女性になれると錯覚する者が出てきてもおかしくなかろう。このような過激な条例が「自称女性」の犯罪を誘発してきた。
もちろん、現在でも「自称女性」の女湯入浴などは刑法の「建造物侵入罪」に当る犯罪であり、公衆浴場法の「衛生等管理要領」でも「男女混浴」が禁止されている。また、厚労省も6月23日、公衆浴場における男女の取り扱いについて改めて通知を出した。それによれば、施設側は「身体的な特徴」をもって男女を区別し、自称女性の女湯利用を禁止するよう指示している。それ故、施設からの通報があれば、警察官は躊躇することなく逮捕権を行使すべきだ。
理解増進法の成立後、自民党の有志議員らが集まり「略称・女性を守る議連」(共同代表、橋本聖子、山谷えり子、片山さつき議員)が設立された。これは懸念されるトランスジェンダー女性からトイレや更衣室など「女性専用スペース」を守るために結成されたものである。理解増進法では「マイノリティ」だけでなく「マジョリティの権利」も保障され(第3条)、しかも「全ての国民が安心して生活できるよう留意」すべきとされており(12条)、これを武器に「女性スペース」を守っていくことは可能だ。
過激な条例の改正の指針示せ
次の課題は全国各地の過激なLGBT条例にブレーキを掛け、危険なジェンダーフリーの性教育などを阻止することである。
もちろん、今回制定された理解増進法は理念法にとどまり、直接、各県条例の改正を命ずるものではない。しかし、憲法94条は地方自治体が「法律の範囲内」で「条例」を定めることができると定めており、理解増進法の規定に反する条例が各地に存在すること自体、憲法の趣旨に反する。
また、例えば条例に基づき「家庭等の協力」なしに行われているジェンダーフリー教育なども、理解増進法の趣旨に反する。それ故、当該自治体は条例を改正して、違憲性の除去に努めるべきだ。
他方、政府は本来の「理解増進」の理念に立脚した明確な指針(ガイドライン)を速やかに作成し、これに基き全国の過激な条例是正のため、積極的な指導を行うべきだ。
2023年8月7日号 週刊「世界と日本」第2250号 より
憲法改正をやり遂げる覚悟を国家と国民に問う
政治ジャーナリスト 細川 珠生 氏
《ほそかわ たまお》
1968年生まれ。聖心女子大学英文科卒。三井住友建設(株)社外取締役。内閣府男女共同参画会議民間議員。(公財)国家基本問題研究所理事。熊本藩主・細川忠興と明智光秀の娘・玉夫妻の直系卑属。1995年より「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本)に出演。2021年3月番組終了まで、放送通算1337回、延べ768人のゲストが出演。同年4月よりPodcast放送で世界に配信中。著書に『明智光秀10の謎』(本郷和人共著)ほか多数。聖心女子大学大学院博士課程前期人間科学専攻在学中。
第211回通常国会は、6月21日に延長もなく規定の150日の会期を終えた。令和に入ってから、憲法審査会の開催頻度が上がり、ほぼ1週間に一度は、国会で憲法についての議論行われるようになった。当たり前のこととはいえ、やっとここまで辿り着いたという思いは拭えない。今となっては考えられないことだが、かつては閣僚になると、「法令遵守義務」を理由に、法の最上位にある憲法について、議論する必要性を国会で述べることすら難しかったことを考えると、憲法の議論が自由にできるようになったことは、日本の政治の中でも一つの進歩ではある。しかし、改正実現への道のりは一体、あとどれくらい続くのだろうか。本稿では、憲法改正が行われてこなかったことによる、国民への不利益と国家の責任について述べたい。
期を熟した審査会での議論
日本国憲法の改正の議論については、そのスタートは1955(昭和30)年、保守合同を経て自由民主党が発足した時まで遡る。しかし、当時は、第二次世界大戦後の占領政策が終わり、独立国として、自らの手で自国の憲法を制定するという必要性への機運の高まりの中で行われてきたものであり、今日の議論は、あまりに長い時の経過により、新たな必要性が加味され、その必要性はより高まっているのである。裏返していうならば、改正を実現できないのであれば、為政者たる政治家の責任はより大きくなる。併せて、憲法改正は、最後は国民の投票によるものであるという点を考えれば、国民が憲法について、いかなる考えを持ち、行動しているのか、政治家以上に責任があると言っても過言ではないだろう。
その前提に立ち、昨今の憲法改正議論から、日本のあり方を考えてみたい。
先頃閉会した第211回通常国会の終盤、6月15日の衆議院の第15回憲法審査会では、緊急事態に関する論点整理が行われ、各党の委員から発言が行われた。同審査会の幹事である自民党の新藤義孝委員は、参議院の緊急集会と議員の任期延長を主な内容とする緊急事態での対処についての議論は、2022年の第208回通常国会以降、211回通常国会の終盤まで計28回、延べ241人の委員による意見表明がおこなわれたと発言。新藤氏は、緊急事態の体制を憲法で定めるべき意義は、緊急事態であれ、正当な民主的基盤を持った内閣が必要である、という考えに立つ。現行憲法による、参議院の緊急集会という位置づけは、衆議院の解散や任期満了により、選挙という、衆議院議員の空白期間ができた時に、もし有事になった場合の国会の脆弱性を指摘する。立憲主義に立ち、民主的基盤を持った内閣でなければ、真っ当な緊急事態対応が不可能であるということである。そのため、衆議院議員の身分を失った期間であっても、それが解散によるものであれば、一時的な身分の復活、任期満了によるものであれば、任期延長により、衆議院議員が正当に存在させるための憲法の規定が必要ということになる。任期延長については、これまでの審査会での論点整理の中で、自民・公明・維新・国民・有志の会の各党会派が賛成しており、いわば成立の目処が立つほどに、賛同が集まっているという審査会の状況もあるようだ。新藤氏は、今後の審査会での役割として、例えば幹事会において一定の方向性を出すという方法もあるのではと指摘している。
そもそも憲法審査会は、2007年に国会の衆参両院に設置され、その前身である憲法調査会も2000年に設置。自由民主党の発足当時ではなく、近年の諸課題、国際情勢の変化を踏まえた憲法論議が始まってからも、およそ四半世紀。9条に示されているように、防衛力というより自衛力としての戦力保持が、必要以上に拡大解釈され、自衛にも不安を残す現状を抱える我が国は、一体、世界からどのようにみられているのだろうか。
危機管理の責任を全うする国家と国民の役割
コロナウイルスによる世界パンデミックは、それまでの「普通」、つまり常識や価値観の転換を、短時間に迫られるような出来事であったと感じることは、何も日本人だけではない。世界が、大きな変革にしっかりと「ついていく」ことに躍起になっていたのが、この3年間であった。たとえば、教育面での変化も著しい。先日、米国の大学では、多様性を重視した選抜枠、いわゆる「アファーマティブアクション(高等教育制度における積極的差別是正措置)」が最高裁で違憲とされたが、本来の米国は多様性の中での切磋琢磨により、一人一人の、いわば「磨き」を掛けることで、国際的な競争力を強化してきたとも言える。しかし、コロナウイルスという未知のウイルスとの戦いにより、あるいは産業構造の変化の中で、米国内の分断は進み、大学選抜の一つをとっても、何が正解かわからない中でも、試行錯誤を繰り返し、「世界一」を目指す歩みを止めない逞(たくま)しさを持って生き抜いてきた。最高裁の判決後も、それを無視するということではもちろんないが、大学がその歩みを止めることは、考えにくい。ジェンダーの多様性然り、人種や民族の多様性然り、排除や包摂の違いに苦しみながらも、しっかりと「前」をむき、妥当な社会整備が進むことに、努力を絶やさないのが、米国の強さでもあると。それが、時代を進め、文明を進め、民族の進化をもたらすものとなるからである。
翻(ひるがえ)って日本は、コロナパンデミックの下で「鎖国」政策を長く続けたことで、世界の動きに、無意識に順応する力を削いでしまったと言っても良いだろう。憲法審査会での新藤委員の指摘を踏まえれば、1年半で28回、延べ241人という大人数の意見陳述があったにもかかわらず、具体的な改正への「一歩」が踏み出せていないことへの苛立ちと、危機感を国民の一人として感じずにはいられない。民主制の下、国民を守るために必要な制度整備は、国家の最重要な役割であり、責任である。それを先送りしているとも思われても仕方ない国会の様相を、国民が放置していて良いのだろうか。国民は主権者として、国会がその責務を果たし、国家としての役割を全うすることに責任があると自覚することが、憲法改正への一歩に繋がるということに自覚を持つべきである。
2023年1月16日号 週刊「世界と日本」第2237号 より
岸田首相よ、今こそ悲願の憲法改正を
現実味を帯びてきた緊急事態事項
国士舘大学客員教授 百地 章 氏
《ももち あきら》
昭和21年、静岡県生まれ。昭和46年、京都大学大学院修了。京都大学博士(法学)。専門は憲法学。比較憲法学会名誉理事(元理事長)、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(共同代表・三好達、田久保忠衛、櫻井よしこ)幹事長。産経新聞「正論大賞」受賞。著書に『日本国憲法 八つの欠陥』(扶桑社新書)など。
昭和27年の講和独立から今年で71年、悲願とされた憲法改正がようやく現実味を帯びてきた。今こそ岸田文雄首相は、非業の死を遂げた安倍晋三元首相の遺志を継ぎ憲法改正に邁進すべきだ。憲法改正こそ岸田首相が総裁選、衆参両院選さらに安倍元総理の国葬儀において内外に誓った最大の公約の一つだからである。
幸い昨年の通常国会以来、憲法審査会は順調に改憲に向けた審議を重ねてきており、憲法改正には今や国民世論の強力な後押しもある。
衆議院の憲法審査会は昨年2月10日の第1回審査会以来、緊急時における「リモート国会」の是非について議論を重ねてきた。これは感染症の蔓延などによって国会議員が出席できなくなり、憲法56条1項に定める「定足数」が充たせない場合に備えるためである。審査会は米国議会の例に倣い「出席」の中に例外的にオンラインによる出席も含めることができる、との新しい憲法解釈をまとめた。
大規模自然災害などで選挙ができなくなった時の「国会議員の任期の延長」についても衆議院憲法審査会では審議が進められ、すでに自民党、公明党、日本維新の会、国民民主党の4党および「有志の会」による賛成の合意が得られている。
つまり数字の上では、憲法改正の国会発議に必要な3分の2の多数が形成されたことになる。
地方議員の任期については公職選挙法で定められており、緊急事態の発生によって万一選挙が実施できない時は、法律の改正によって対応可能である。
しかし国会議員の任期は憲法によって衆議院議員が4年、参議院議員が6年と定められている。そのため任期満了直前あるいは衆議院解散後、感染症がまん延したり大規模自然災害が発生して選挙が実施できなくなった時は今の憲法では対処できず、憲法に「議員の任期延長」を盛り込んで置くしかない。
ただし国会議員の任期延長は、議員に対して特権を与えるものではない。あくまで緊急事態でも国会の立法機能を維持させ、国民生活を守るためである。
つまり緊急時においても、国会が速やかに被災者を救済するための法律を作ることができるようにするためである。
平成7年1月に発生した阪神淡路大震災の際は、発生から2カ月の間に14本の法律が制定されたが、その中には被災者のための租税免除や減額、復興のための基本方針の作成、被災自治体への特別な財政援助、さらに地方議員や首長らの選挙の延期など、様々なものがあった。
また平成23年3月の東日本大震災の時も、地震発生直後に地震防災対策のための特別措置法改正や地方議員・自治体首長の選挙の延期のための法律が制定され、発生後2カ月間で震災対策のための法律が11本制定されている。
ということは、あの時もし国会が集会できなかったら被災者の速やかな救済もできず、復興の方針も立てられなかったことになる。とすればさらに大規模な震災、例えば首都直下型の大地震が発生し、国会が集会できないときに法律を作るためにはどうすれば良いのか。その答えが内閣による「緊急政令」つまり、緊急時において国会が集会できない時、国会に代わって一時的に立法を行い、後日、国会の了承を求める制度である。
政府の中央防災会議は、マグニチュード7クラスの首都直下型地震が発生する確率を今後30年以内に70%と予測しているが、大正12年9月に関東大震災が発生した際、首都東京は壊滅状態に陥っている。東京市内の44%が火災のため炎上し、死者・行方不明者は約10万5千人に達した。そのため帝国議会を召集することはできなかった。
そこで発足したばかりの山本権兵衛内閣は次々と緊急勅令(緊急政令)を発し、これによって被災者救済のため食糧の調達や物資の買占め防止、物価高騰の取締り、債務の支払い猶予、被災者の租税免除などがなされた。地震発生の9月1日から1カ月で12本の緊急政令を発し、12月11日に臨時議会が召集されるまでの3カ月間は緊急政令で対応するしかなかった。
このように考えると、議員の任期延長だけでなく、そもそも国会が集会できないような真の緊急事態に備えて憲法に緊急政令を定めておくことは不可欠である。ちなみに、今年は関東大震災から丁度100年に当たる。
確かに、明治憲法8条の緊急勅令は濫用されたこともある。その大きな原因の一つは条文の不備にあった。同条には「天皇は公共の安全を保持し又はその災厄を避くる為緊急の必要に由り帝国議会閉会の場合に於いて法律に代わるべき勅令を発す」とあり、緊急勅令は「帝国議会の閉会」時に限られていた。
しかしその他の条件は「公共の安全を保持し又はその災厄を避くるため」「緊急の必要」があれば可能といった極めて曖昧なものであったため、議会での審議を避けて会期終了直後に勅令が発布されることもあった。
それゆえ憲法に「緊急政令」を定める際は、対象を「地震その他の大規模自然災害」や「強毒性感染症の発生・まん延」等の緊急事態に限定し、目的を「国民の生命、安全、財産を守るため」、さらに条件を「国会が集会できない時」つまり臨時国会も召集できないときに限るなど、政令制定の条件を厳しく限定する必要がある。そうすれば濫用も防止できよう。
ちなみに占領下の昭和20年9月、宮沢俊義東大教授は議会の召集が不可能な場合に限定し運用の濫用を慎めば、緊急政令に「存続の価値あり」としていたし、わが国政府も当初、内閣の緊急政令を主張していた。
しかしGHQの反対により、現行憲法には盛り込まれなかった。
以上の点を踏まえて、憲法審査会では速やかに憲法に「緊急政令」を定めるための議論を深めて欲しい。
そして岸田首相には、わが国を緊急事態にもまともに対処できない脆弱な国家から普通の国並みの強靭な国家とするため、毅然として憲法改正につきリーダーシップを発揮して欲しいと切望している。
2022年9月5日号 週刊「世界と日本」第2228号 より
今こそ憲法改正を推し進めよ
駒澤大学名誉教授 西 修 氏
《にし おさむ》
1940年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。同大学院政治学研究科修士課程、博士課程修了。政治学博士、法学博士。主な著書に『憲法改正の論点』(文春新書)、『憲法の正論』『(産経新聞出版)、『証言でつづる日本国憲法の成立経緯』(海竜社)、『“ざんねんな”日本国憲法』(ビジネス社)など多数。
7月10日におこなわれた参議院通常選挙の結果、自民党、公明党、日本維新の会および国民民主党の改憲派4党が、国会両院で憲法改正に必要な3分の2以上の議席を獲得した。岸田文雄首相(自民党総裁)は、この結果を受け、「早い機会に発議に向けて改正原案をまとめたい」と語った。有言実行を期待する。
そのためには、憲法審査会を動かさなければならない。なぜならば、憲法改正国民投票を実施するための「憲法改正原案」を作成するのが、憲法審査会だからである。
両院で憲法審査会が始動したのは、2011(平成23)年10月のことだ。それから11年を経て、どんな成果があったのか。ほぼナッシング。2011年から2022(令和3)年までに消費された経費は、衆議院憲法審査会で約17億2500万円、参議院憲法審査会は約12億7100万円、合計で実に約30億円にのぼる。時間と費用の壮大な無駄遣いがなされてきたといわなければならない。いつまでこの状態を続けるのか。国民の辛抱は、限界にきている。
憲法審査会が動いてこなかった最大の理由は、立憲民主党が消極的だからである。進行を止めようとさえしてきた。立憲民主党は、立憲主義と民主主義とを合体させたものであろう。その根底には、国民主権主義がある。国民主権を具体化したのが、憲法改正国民投票だ。憲法改正のための国民投票を推し進めることこそが、立憲民主主義に合致する。さすがに立憲民主党も、阻止一辺倒では世論の支持が得られなくなったことを認識し、今年の通常国会(1月〜6月)では、衆議院で定例日に毎回のように出席した。この機会を逃すべきではない。
抽象論を止め、具体論を展開すべきだ。これまでの憲法審査会は「一般討議」の名のもとに、交わりのない「一般討論会」がおこなわれてきたにすぎない。いまや議論を収斂(しゅうれん)すべき時期だ。そろそろ決をとってもよい。各党は、自らの改正案を憲法審査会に提出し、すり合わせをおこない、国民に提起する「憲法改正原案」の作成に注力すべきだ。
現在、明文の憲法改正案を提示しているのは、自民党と日本維新の会である。自民党は、2018(平成30)年3月26日、①自衛隊の明記、②国家緊急事態対応、③参議院の合区解消・地方公共団体、④教育の充実の4項目について、改正案を作成している。
日本維新の会は、2016(平成28)年3月24日、①教育の無償化、②統治機構改革(地域主権関係)、③憲法裁判所の設置に関する原案を示している。今年5月18日、第9条について、さらに6月8日、国家緊急事態条項に関して、それぞれ具体的案文を公けにした。これら二つは、参議院通常選挙を意識して発表されたものである。その結果、同会は野党のなかで唯一、議席を大幅に増やした。
公明党は、第9条1項と2項を堅持するとしつつ、山口那津男代表は、実力組織たる自衛隊への文民統制の導入について、加憲に含みをもたせている。また、大災害などの国家緊急事態における国会議員の任期延長につき、論議を進めるとしている。
国民民主党は、自衛権の行使の範囲、自衛隊の統制などとともに自衛隊の保持を認める議論を進めるという立場をとっている。また、緊急時における行政府の権限を統制するための緊急事態条項の創設を提唱している。
こうしてみると、自衛隊の明記と国家緊急事態対応については、4党が知恵を集めれば、原案作成は可能であろう。その方向へ向けて歩を進めてほしい。
立憲民主党は、参院選の公約では、①内閣による衆議院解散権の制約、②臨時国会召集の期限明記、③各議院の国政調査権の強化、③政府の情報公開義務、④地方自治の充実について議論を深めることを掲載している。原案を作成してほしい。そのタイム・リミットがきている。
最近の世論調査では「国会で憲法改正の議論を進めてほしい」という前向きな意見が、「進めてほしくない」という消極的な意見を凌駕(りょうが)している。具体的な設問形式は違うものの、前者に属するものを「賛成」、後者に属するものを「反対」に分けると、以下の結果になる。
読売(7月13日)「賛成58% 反対37%」、毎日(7月18日)「賛成53% 反対30%」、NHK(7月19日)「賛成45%、反対13%」、朝日(7月19日)「賛成53%、反対29%」、産経・FNN合同(7月25日)「賛成69・3% 反対21・3%」、日経(8月1日)「賛成73%、反対19%」。
ここで注目されるのは、日経は賛成が反対の4倍近くを占め、NHK、産経・FNN合同は3倍を超えている。社論として憲法改正反対を唱えている朝日では、「賛成」が「反対」の2倍近くにおよんでいる。
なお、自衛隊明記に関し、今年の5月2日と3日に発表された各社の世論調査をみると、読売(賛成58%、反対37%)、朝日(賛成55%、反対34%)、毎日(賛成58%、反対26%)、共同通信(賛成67%、反対30%)と、自衛隊明記の賛成が反対を大きく上回っている。
また、国家緊急事態対応条項の導入について、4月と5月に実施された世論調査の賛否は、以下のとおり。
読売(賛成55%、反対42%)、朝日(賛成59%、反対34%)、FNN・産経(72%、反対20%)、日経(賛成49%、反対37%)、共同通信(賛成69%、反対30%)。ここにおいても、「賛成」が「反対」をはるかに引き離している。
国会が、このような国民の多数の声を無視することは許されない。憲法改正の判断をくだすのは、国民であって、国会ではない。
世界各国の憲法をみると、平和、国防、国家緊急事態対応条項の3点セットを導入することは、憲法常識である(拙著『“ざんねんな”日本国憲法』ビジネス社)。憲法改正の1丁目1番地と2番地は、自衛隊明記と国家緊急事態対応条項の新設である。一刻も早く、これらの憲法改正原案の国民への提出がなされなければならない。
2022年8月1日号 週刊「世界と日本」第2226号 より
婚姻制度の意義説いた大阪地裁判決
性的指向には意義あり
麗澤大学教授 八木 秀次 氏
判決は、婚姻は男女が子供を産み育てる制度であるとし、その趣旨から同性カップルの関係を婚姻と認められないとしながら、今日、全国各地の自治体で導入されている「同性パートナーシップ制」(同性カップルの関係を男女の婚姻に「相当する関係」と扱う制度)という「婚姻類似の制度」が広がりつつあるので、不利益は救済・緩和できるとした。
そして今後の国民の判断次第では将来的には同性婚を認めないのは憲法に違反する可能性もあると示唆した。
《やぎ ひでつぐ》
1962年、広島県生まれ。早稲田大学法学部卒、同大学院政治学研究科博士後期課程研究指導認定退学。高崎経済大学教授などを経て現職。憲法学専攻。家族法制や皇室法制にも詳しい。政府の教育再生実行会議、法制審議会民法(相続関係)部会などの各委員を務めた。第二回正論新風賞受賞。現在、山本七平賞選考委員など。
詳しく見てみよう。
判決は、札幌地裁判決のように婚姻を単なる当事者の共同生活とするのではなく、「異性間の婚姻は、男女が子を産み育てる関係を社会が保護するという合理的な目的により歴史的、伝統的に完全に社会に定着した制度である」と、婚姻制度の目的が子供を産み育てることにあると強調した。この点は大いに評価すべきだ。
婚姻とは「子供を産み育てるための制度」とするのが民法学の通説だが、札幌地裁の裁判では被告の国側の主張が弱かった。しかし、大阪地裁では国側もその趣旨を強調し、判決の本文では「本件諸規定(民法と戸籍法の規定)が異性間の婚姻のみを対象としているのは、婚姻を、単なる婚姻した二当事者の関係としてではなく、男女が生涯続く安定した関係の下で、子を産み育てながら家族として共同生活を送り次世代に継承していく関係と捉え、このような男女が共同生活を営み子を養育するという関係に、社会の自然かつ基礎的な集団単位としての識別、公示の機能を持たせ、法的保護を与えようとする趣旨によるものと考えられる」と、婚姻制度の有する世代間継承の面にも言及した。
この点を捉えて、民法学に不案内な「識者」が、結婚とは当事者の共同生活をいうのであって子供を産み育てることを目的とするものでない。子供を産まない、産めない人たちを見下している差別的な判決だと批判しているが、見当違いも甚だしい。
初めから子供を儲けない、あるいは儲けられない夫婦もいる。しかし、大半の夫婦は婚姻関係の中で子供を儲けて育てる。その関係を法的に保護するのが婚姻制度の趣旨だ。また、制度というのは抽象的・包括的なもので、大半の子供を儲ける夫婦を前提として婚姻制度を構築し、その中に子供を儲けない夫婦も包摂するという構造になっている。が、制度としてはあくまで婚姻は子供を産み育てるものということなのだ。
判決の一番の問題は同性愛という性的指向についての理解にある。「異性愛者は婚姻できるのに同性愛者は婚姻ができず、婚姻の効果を享受できないという差異が生じ」ているとし、「これは、性的指向という本人の意思や努力によっては変えることができない事柄によって、婚姻という個人の尊厳に関わる制度を実質的に利用できるか否かについての区別取扱いするものである」とする。裁判所としての「認定事実」にも以下のことが述べられている。
「性的指向が決定される原因、又は同性愛となる原因は解明されておらず、遺伝的要因、生育環境等複数の要因が組み合わさって作用している可能性が指摘されている。しかし、精神衛生(メンタルヘルス)に関わる大部分の専門家団体は、ほとんどの場合、性的指向は、人生の初期か出生前に決定され、選択するものではないとしており、心理学における主たる見解も、性的指向は、意思で選ぶものでも、意思により変えられるものでもないとしている。精神医学においても、同性愛者の中には性行動を変える者がいるものの、それは性的指向を変化させたわけではなく行動を変えたにすぎず、自己の意思や精神医学的な療法によっても性的指向が変わることはないとされている」
こう述べた後、世界保健機関や日本精神神経学会の同様の見解が紹介されるが、ここからは、本人の意思によって選択できない同性愛という性的指向によって婚姻できないのは「かわいそう」だ。子供が生まれない点については男女の婚姻と異なるが、いずれ国民の多数が賛成すれば、婚姻の中に包摂してもよいとの結論に導かれる。
しかし、これらの性的指向についての見解は科学的に正しいのか。今日、専門の科学研究者から異論が挙がっている。
ニュージーランドの生化学者で同性愛の科学研究の第一人者ニール・ホワイトヘッド博士は世界中の1万点以上の研究論文を再検討した著書『私の遺伝子が私にそれをさせた!—同性愛と科学的証拠—』(最新版2020年、未邦訳)で多くの研究結果を紹介し、「同性愛の指向は先天的で固定されたものではなく、性的指向は自然に大きな変化を遂げることができる」と結論づけ、上記の一連の見解は1990年代までの誤ったものだという。
2010年代以降の最新の科学研究は、同性愛の性的指向は後天的であり、幼少期の虐待や性的虐待、両親の不和、劣悪な家庭環境、思春期後の性的経験、生まれつきの性別と異なる外見などが原因とする。心の問題であり、精神医学や宗教による「修復治療」で異性愛に戻るケースが極めて多い。
「同性愛者が異性愛者に向かうという文献は豊富にあり、多くの場合、治療支援によっても達成されるが、ほとんどの場合は、治療の支援によらないでも変化は起きる」「元ゲイは実際のゲイよりも多い」と博士は述べている。
ここからは同性カップルを安易に男女の婚姻と同じように社会的に公認してはならないとの結論に至る。法的判断は科学的見地に立って慎重になされなければならない。
2022年1月17日号 週刊「世界と日本」第2213号 より
新しい日本国憲法の制定に向けて
-第一歩は緊急事態条項から-
国士舘大学特任教授 百地 章 氏
《ももち あきら》
昭和21年、静岡県生まれ。昭和46年、京都大学大学院修了。京都大学博士(法学)。専門は憲法学。比較憲法学会名誉理事(元理事長)、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(共同代表・三好達、田久保忠衛、櫻井よしこ)幹事長。産経新聞「正論大賞」受賞。著書に『日本国憲法 八つの欠陥』(扶桑社新書)など。
昨年の衆院選を機に、憲法改正をめぐる政治状況は大きく変わってきた。
党是である憲法改正を掲げて戦った自民党は、直前までの惨敗の予想を覆して健闘し、憲法改正に積極的な日本維新の会が大躍進を遂げた。その結果、国民民主党を加えれば、衆議院では改憲に前向きな勢力が4分の3にまで達した。他方、改憲論議さえ頑なに拒んできた立憲民主党は大きく後退しており、にわかに改憲が視野に入ってきた。
国会が発議する憲法改正案の原案を作成するのが憲法審査会であるが、選挙結果を受けてようやく正常に機能しそうだ。
ただ、憲法改正に前向きといっても、各党の主張する改憲案はさまざまであり、そのような中で漫然と改憲論議をしていても簡単には纏まるまい。それ故、次の課題は改憲のテーマをどのようにして絞り込んで行くかということになる。
この点、最もふさわしいテーマを選び出すための基準としては、以下のようなことが考えられよう。第1に国家の根幹に関わる事柄であること、第2に改正が緊急性を要すること、第3は国会の3分の2以上、国民の過半数の賛成が得られそうなことである。
このように考えた場合、例えば9条2項を改正して自衛のための軍隊を保持することは、国家の根幹に関わり緊急性を要するが、残念ながら公明党が反対しており、国会で3分の2の多数の支持を得ることさえ、現実には困難であろう。
そうなれば、現在、改憲のテーマとして最も相応しいのは緊急事態条項ではなかろうか。これなら自民党の憲法改正素案の1つであり、日本維新の会も「日本維新八朔2021」の中で「緊急事態条項」の創設を優先的に目指すとしている。
また、国民民主党も政策5本柱の1つとして「国民と国土を『危機から守る』」をあげ、公明党も衆議院の公約として「緊急事態における国会の機能の維持」を掲げており、緊急事態条項であれば自民、公明、維新、国民が協力できるのではないかと思われる。
次に問題となるのが、緊急事態条項の具体的な内容である。
平成23年の東日本大震災や今回の武漢発新型コロナ感染症のパンデミックを想起するならば、対象は大規模自然災害と感染症のパンデミックに絞り込むのが現実的であろう。
本来、緊急事態といえば真っ先に戦争や内乱、大規模テロがあげられるが、それをやりだしたら猛反対が起き、収拾がつかなくなる恐れがあるからである。
次に、緊急事態の具体的な課題として考えられるのが、「より多くの国民の命を守るための一時的な私権の制限」、「平時から緊急時への法制度の切り替え」、「国民生活を守るための国会の機能維持」といった事柄であろう。
このうち、「緊急時の一時的な私権制限」については、東日本大震災の折にも食糧、水、石油等の買占め制限やガレキの除去が課題となったが、私権の壁に阻まれ、災害対策基本法だけでは思うように対処できなかった。
また、今回の新型コロナ禍でも、外出や営業の禁止の是非が問題となったが、中々進みそうにない。各種世論調査では「強制的な外出制限」に賛成する国民も多いが、「外出の禁止」となれば自民、公明、維新、国民の間でも簡単に合意はできないだろう。
次に、「平時から緊急時への法制度の切り替え」だが、これは普段(平時)は信号に従い、いざ火事などの緊急事態が発生した時は、緊急車両が信号を無視して走行できるようになっている道路交通法の発想をヒントにしたものである。
このような緊急時の規定を関係法律の中に盛り込んでおき、憲法上、内閣が緊急事態宣言を発することができるようにしておけば、法制度のスムーズな切り替えは可能となろう。
たとえば、感染症のパンデミックが発生し、仮設の野戦病院を建設しようとする際も、医療法、建築基準法、消防法などに緊急時の規定がすべて盛り込まれていれば、容易に対応できたのではないかと思われる。
しかし、あらゆる法律に緊急時の規定を盛り込むのは簡単ではなかろう。
そこで考えられるのが、「国民生活を守るための緊急時における国会の機能維持」である。
具体的には、たとえば、国会で感染症のクラスターが発生し、憲法56条に規定された3分の1の「定足数」が充たせなくなった際や、首都直下型大地震、南海トラフ巨大地震等の大規模自然災害が発生し国会の集会そのものが不可能となった場合などの特例が考えれる。
また、大規模自然災害の発生によって国会議員の選挙ができなくなった場合の任期の特例なども考えられよう。地方議員と異なり、国会議員の任期は憲法に明記されているため、その特例は憲法で定めるしかないからである。
このような内容であれば、立憲民主党でも簡単には拒み切れないであろう。
そこでまず喫緊の課題として、国会で感染症のクラスターが発生した際の「オンライン出席」の是非から議論を開始したらどうだろうか。
実は、昨年4月の衆議院憲法審査会でも自民党や日本維新の会がこの問題を取り上げており、公明党も衆院選の公約で、大災害などの国家的危機が発生した際の「オンラインによる国会審議、採決に参加できる制度の創設を検討します」と述べている。
オンライン国会の是非については憲法学者の間でも意見が分かれており、憲法上認められた議院の自律権の問題として考えればよいとする説と、憲法改正が必要とする説が対立している。
とすれば、仮に議院自律権に含まれるとしても、議院規則等への明文化は必要なはずだし、憲法改正が必要となれば、定足数の特例をどのように憲法に明記すべきか、議論を煮詰めていく必要がある。
憲法施行後、70年以上もの間、一度も実現できなかった憲法改正である。新憲法の制定といっても、残念ながら先ず第一歩から踏み出すしかない。
しかし、このような緊急事態条項であれば、国会の3分の2以上と国民の過半数の賛成は可能なはずである。それ故、今年こそ、国会は本気で憲法改正に取り組み、改憲勢力に4分の3もの議席を与えた主権者国民の思いに誠実に応えて欲しい。
2020年11月2日号 週刊「世界と日本」第2184号 より
緊急事態条項から改憲を
新政権に望む
国士舘大学特任教授 百地 章 氏
7年8カ月に及んだ第2次安倍晋三内閣の実績評価は70%以上と驚異的であったが、それを受けて菅義偉内閣がスタートした。新内閣もマスコミ各社で60%から70%というかつてない高い支持率を誇っている。菅首相は「安倍路線の継承」を明言し、憲法改正についても「自民党結党以来の党是であり、当然、行って行くべきだ」と繰り返した。そしてこの発言どおり自民党の憲法改正推進本部の役員を一新し、党三役や各派閥の会長を顧問につけて本格的な取り組みを始めた。
《ももち あきら》
昭和21年、静岡県生まれ。昭和46年、京都大学大学院修了。京都大学博士(法学)。専門は憲法学。比較憲法学会名誉理事(元理事長)、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(共同代表・三好達、田久保忠衛、櫻井よしこ)幹事長。産経新聞「正論大賞」受賞。著書に『日本国憲法 八つの欠陥』(扶桑社新書)など。
菅首相(自民党総裁)には、高い支持率を背景に速やかに憲法審査会を始動させて懸案の国民投票法を改正し、実質的な改憲論議に着手できるよう、指導力を発揮して欲しい。
自民党が掲げる憲法改正「たたき台素案」のうち、最も緊急性を要するのは「緊急事態条項」であろう。
中国・武漢発の新型コロナウイルスは世界的なパンデミックをもたらし、10月8日現在、世界全体で感染者数は3600万人、死者も100万人を超えた。
感染症の蔓延を阻止するため欧米諸国がとった措置は、極めて厳しいものであった。これらの国々では感染症を単なる公衆衛生の問題ではなく「国家安全保障の問題」と位置付け、迅速かつ強力な対策を講じてきた。なぜなら、感染拡大で政府機能や経済・社会活動が麻痺する事態になれば、国家の存続さえ脅かしかねないからである。
それ故、これらの国々では、憲法で国民の人権を手厚く保障する一方で、いざ国家的な緊急事態に遭遇するや、速やかに危機を乗り越え、より多くの国民の命や安全を守るために、一時的に厳しい人権制限を行っている。
フランスでは憲法上、大統領に強大な緊急措置権が与えられているが(第16条)、今回、政府は「非常事態法」に基づいて「外出の禁止」や「店舗の一時閉鎖」を命じ、違反者には約9万円から約46万円の罰金が科せられた。
またイタリアでも、憲法の緊急事態条項に基づき「緊急命令」が発せられた。そして「都市間の移動の禁止」「商業活動の禁止」「外出の禁止」などが命ぜられ、違反者には最高約37万円の罰金が科せられている。
これに対して、わが国で取られた緊急措置は改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づくものであるが、欧米各国と比べて非常に緩やかであった。外出の自粛や休業の「要請」が行われただけで、欧米各国のように罰則付きで「外出」を「禁止」したり「店舗の閉鎖」を命じたりすることはできなかった。
確かに「国民性」の違いもあり、果たしてわが国でも欧米各国と同様に、直ちに「強制力」を伴う「外出の禁止」や「商店の閉鎖」を行う必要があるかどうかは疑問である。わが国では「外出の自粛要請」だけで、大多数の国民は外出を自粛しているからだ。
しかし万一、今回の新型コロナウイルスよりはるかに毒性も感染力も強い感染症が全国に蔓延した場合、それだけで良いのか。場合によっては、強制的に外出を「禁止」したり、商業施設の営業を「禁止」したりしなければならない場合もあろう。
ただ、それだけなら法律(特措法)を改正すれば可能かもしれない。
しかし、憲法が保障する「居住・移転、職業選択の自由」(第22条)や「財産権の不可侵」(第29条)との兼ね合いから、憲法違反の疑いを回避するためにも、憲法に特別の根拠規定を設ける必要があると思われる。
世界の先進国ではすべて憲法上「緊急権」が認められており、緊急事態条項のない国などほとんど存在しない。それゆえ、今こそわが国でも憲法に緊急事態条項を定め、国家的な危機に対処できるようにする必要がある。
その際、より多くの国民の賛同を得るためには、緊急事態の対象を限定すべきであろう。具体的には、「大規模自然災害」と「悪性感染症のパンデミック」の2つに絞ったらどうか。
この点、先の東日本大震災や今回の新型コロナウイルスの影響もあろうか、各種世論調査では憲法を改正して緊急事態条項を設けることに賛成する国民が多い。例えば、共同通信(4月29日)では51%(反対は47%)、毎日(5月3日)で45%(反対14%)、産経・FNN(5月12日)で65.6%(反対25.5%)が賛成している。
緊急事態条項の具体的な内容としては、先に述べた点に加え、第1に法律を制定したくても国会が集会できない時のために、「定足数の例外」を定めて置くことである。
「憲法には事態条項など不要であり、法律で対応すればよい」と主張する人たちは、もし首都直下型大地震や南海トラフ巨大地震が起こったり、毒性の強い感染症が全国に蔓延したりして、国会議員が国会に出席できない場合には、どうするつもりだろうか。
定足数は憲法で総議員の3分の1と定められているから、憲法に特例を定めておくほかない。
第2に国会が集会できない時に、一時的に国会に代わって内閣が緊急政令を制定し、危機を乗り切った後で速やかに国会の承認を求める「緊急命令(政令)」を採用することである。
この緊急政令制度は、イタリアの他にオーストリア、スペイン、台湾憲法でも採用されており、自民党の改憲案「たたき台素案」にもある。
第3に国会議員の任期の特例である。例えば衆議院の解散中や衆参両院議員の任期満了前に大規模地震や感染症のパンデミックが発生して、総選挙や通常選挙を実施することができない場合、どうすれば良いか。
国会議員の場合には、法律で特例を定めることが可能な地方議員と異なり予め憲法に特例を定めておくしかない。
このような緊急事態条項であれば、フランス大統領の「独裁的権力の行使」などとは無縁だから、国民の支持も得られやすいのではなかろうか。
菅首相には、安倍政権の残した国会の3分の2の改憲勢力を力に、是非とも改憲に着手して欲しいと思う。
2019年10月1日号 週刊「世界と日本」第2158号 より
提言 憲法改正
現条文の後に新条文追加を
第104条で自衛隊の「合憲性」を明確に
大阪大学大学院 法学研究科教授 坂元 一哉 氏
安倍晋三首相は2年前の憲法記念日に、憲法改正に関する画期的なアイデアを出している。憲法9条1項(戦争放棄)と2項(戦力不保持)をそのままにしたうえで、憲法に自衛隊を明記するというアイデアである。このアイデアで憲法改正ができれば、戦後日本の政治と安全保障の悩みの種となってきた憲法9条の解釈問題に、ようやく決着がつく。私はそう期待したが、その後、国会での議論はまったく進んでいない。
憲法改正を使命とする安倍首相は、7月の参院選で勝利した後、改正を議論する必要について国民の理解が得られたとして、国会が自民党の改正案にとらわれずに議論を進めるよう促した。
その「とらわれない」議論の役に立つかどうかは知らない。だが私自身は憲法9条の問題は、首相のアイデアにそって次のようにしてはどうかと考えている。すなわち、
(1)全部で103条ある日本国憲法の条文の後に、新しく第104条を追加する、
(2)その第104条に「この憲法のいかなる条項も自衛のための実力組織の保持を禁じるものではない」といった文言を盛り込む、
(3)まずそのことから始める、
という考えである。
安倍首相のアイデアを入れて憲法改正を考える場合、自衛隊の根拠を明記する文言をどこに盛り込むかがまず問題になる。
私はこれは、9条に盛り込まない方がいいと思う。9条の1項、2項をそのままにするというのは、要するに9条を変えないということである。にもかかわらず、9条の3項とか、9条の「2」とかを作ってそこに盛り込もうとすれば、新旧2つの9条の違いをめぐり、議論が不必要に混乱するだろう。
その混乱は、9条を絶対に変えるべきでない、とする人たちはもちろん、変えるべきだ、とする人たちの改正への支持も揺るがしかねない。なぜなら、9条の1項、2項がそのまま残る新しい9条に賛成すれば、その2つの条項にも賛成したことになってしまうので困る、とくに2項は困る、と考える人も少なくないだろうからである。
それで、9条ではなく新しい条文をつくって憲法に盛り込むとしたら、その条文をどこに置くのがいいか。これは全体の条文の順番をずらさないためにも、最後の条文の後に第104条として置くのが妥当だろう。
私案の第104条は、上記のような文言にしている。注意すべきは、どんな文言にするにせよ、その文言によってはじめて自衛隊は憲法違反ではなくなった、という解釈を生み出さないようにすることである。そのため私案の文言にはあえて、自衛隊という文字を入れていない。
ただ単に、これまでの政府の憲法解釈を踏まえて、自衛隊のような「自衛のための実力組織」が憲法の「いかなる条項」(9条2項を含む)にも反しないことを確認しているだけの文言である。だがこういう文言ならば、自衛隊が憲法違反では「ない」だけでなく、「なかった」ことも、明確にできる。
むろん、それを明確にするだけでは十分ではない。わが国が保持する「自衛のための実力組織」は、いまや年間5兆円を越える予算を使う、世界有数の軍事組織になっている。自衛隊という名称はもちろん、その基本的性格も憲法に盛り込んではじめて、この「実力組織」を憲法にしっかり位置づけたといえるだろう。少なくとも、その組織の最高指揮権の所在は書き込む必要がある。
ただ私はそのことについては、第104条の新設によって「実力組織」の合憲性を明確にした後、第105条以下に別の条文を作って書き込むことにした方がよいと考える。
そう考えるのは、自衛隊の創設から65年が過ぎたいま、わが国が保持すべき「自衛のための実力組織」については、そもそも自衛隊という名前はそのままでいいのか、またいまの志願制は続けていけるのか、あるいは軍事裁判所の不在をどうするか、といったことなど、あらためて組織の基本的なあり方を議論すべきところがあるように思うからである。
そのため、まずは「実力組織」の合憲性を明確にする改正を行ったうえで、その組織の基本的性格について国民的な議論を行う。現状のままでいいのかどうかの議論を見定めて、憲法に書き込むべきものを書き込んでいく。
多少時間がかかってもそのように進めた方が、結局はよりスムーズに「実力組織」を憲法のなかに位置づけることができるだろう。
この私案は憲法9条の改正案ではない。従来、自衛隊の合憲性を支えてきた政府の憲法解釈を、新条文で確認するだけの憲法改正案である。
しかし、そういう改正ができれば、一部の憲法学者を含め、国民のなかに未だに存在する、自衛隊違憲論や合憲性への疑念を払拭し、長く続いてきた、憲法9条と自衛隊が矛盾するかしないかの論争に終止符を打つことができる。その点では、9条の改正と同じ効果がある。
私案はまた、将来における憲法9条の改正を妨げるものでもない。いまは改正しないが、将来、「実力組織」のあり方について新しい国民のコンセンサスができ、やはり9条は改正すべきだとなれば、そうすればよい。
この私案のような憲法改正ができれば、憲法9条以外の憲法改正問題、たとえば緊急事態条項や教育無償化などの問題も、議論が活性化しやすくなるだろう。そうした問題については、国民的な議論がまだほとんどできていない。それは、これまで憲法改正といえば、憲法9条と自衛隊の合憲性が最大の問題であり、その最大の問題に最終的な決着がついていないことが障害になっているからだろう。
私案はまず、憲法の実質を変えないでその障害を取り除く。そのうえで、「実力組織」の基本的性格を定める憲法改正であれ、緊急事態条項など他の改正であれ、実質的な改正に国民のコンセンサスが得られたものから、105条、106条、というように付け加えていく。そういう憲法改正の道筋を提案する改正案でもある。
2019年9月16日号 週刊「世界と日本」第2157号 より
憲法に「大規模自然災害」条項を
突き崩せ 70年続く強固な岩盤規制
国士舘大学特任教授 百地 章 氏
先の参議院選挙で、安倍晋三首相(自民党総裁)は「改憲論議を進める政党を選ぶかどうか」を有権者国民に繰り返し訴えてきた。その結果、自民党、公明党、それに日本維新の会など憲法改正に前向きとされる勢力が3分の2にあと4議席と迫ったことから、秋の臨時国会では、いよいよ本格的な改憲論議が始まるものと期待している。
自由民主党は昭和30年、「自主憲法の制定」を掲げて結成された政党であり、これまでいくつかの憲法改正案を纏めてきた。近いところでは、平成24年の「日本国憲法改正草案」があるが、ここでは「わが国の国柄」や「歴史伝統」を高らかにうたった「前文」から始まって、天皇を「元首」と定める第1章、「国防軍の保持」を定めた第2章と続き、第9章には「緊急事態」の規定も置かれている。
この改正案は、自民党が下野した当時のもので、それだけにかなりエッヂを効かせた改正案となった。まさに、本来の日本を取り戻すための憲法改正案といえよう。しかし、現在は「歴史的文書」として棚上げされている。
これに対して、昨年春以来、自民党が掲げる「憲法改正案」(たたき台草案)は4点。
その第1が現在の9条1・2項には手を付けず、「9条の2」に「わが国独立と平和を守り、国家および国民の安全を保つため、自衛隊を保持する」旨、明記しようとする、極めて控えめなものだ。
そして第2が「緊急事態条項」であり、これも「外部からの武力攻撃、内乱、大規模自然災害その他の緊急事態」に備えようとする平成24年の改正案と違って、取りあえず「大規模災害」に備えようという抑制的なものにとどまっている。
さらに第3が「教育権の充実」、第4が「参議院の合区解消」である。
占領下において、GHQの圧力下に制定された現行憲法を日本国民自身の手で作り直し、わが国の国柄を踏まえた、主権独立国家に相応しい自主憲法を制定するのは、当然のことである。したがって、本来であれば、自民党の平成24年改正案が望ましいことはいうまでもない。
他方、現実を見た時、戦後すでに73年も経過したにも拘わらず、現行憲法を一字一句改正できなかったという冷厳な事実がある。また、国会の現状を見ても、公明党は「改憲勢力」と見られること自体、避けようとする傾向がある。となれば、24年改正案など残念ながら夢のまた夢、現実的可能性という点では、願望にとどまるだろう。
それでは、一体どこから着手すべきか。筆者はその際の基準として、第1に国家の根幹にかかわる事柄であること、第2に国家的緊急性を要すること、そして第3が現実に国会両院の3分の2以上、および国民の過半数の賛成が得られそうなテーマであること、を考えている。
この点、第1と第2から考えれば、自民党の改正案(たたき台草案)にある「自衛隊の明記」や「緊急事態条項」など、恰好なテーマであろう。
しかし第3を考慮した場合、最も現実的な改憲テーマは緊急事態条項となるのではなかろうか。それ故、自民党案にある「大規模災害」を敢えて「大規模自然災害」に絞ってでも、憲法改正の実現を目指すべきである。それによって、施行以来70年続いた強固な「岩盤規制」を突き崩すことができるのではないか。
ただ、公明党や日本維新の会には、果たして「緊急事態条項」が憲法に必要なのか疑問もあるようだ。というのは、現在でも災害対策基本法や災害救助法などの緊急事態法制は整備されており、それで十分ではないか、あるいは、いざとなれば「参議院の緊急集会」が存在するではないか、といった楽観論があるからだ。
しかし、考えてもみよう。現在ある法律だけで本当に大丈夫か。あの平成23年の東日本大震災の折、被災者は互いに助け合い、国民の多くも節度正しく行動したが、一部国民の買い占めのためにガソリンが不足し、緊急車両が走れなかったり、病院の暖房が効かなかったりして、死亡した例もある。なぜ、ガソリンの買い占めを制限できなかったのか。
この質問に対して、政府の役人は、法律上は取引制限が可能であっても、憲法にそれを担保する規定がなければそれはできない旨、答えている。
他にも問題となったのが、膨大なガレキの処理であった。災害対策基本法上はガレキの処理は可能だが、憲法29条の「財産権の不可侵」がネックとなって、緊急車両用の道路を断念した自治体の首長もいる。これなども、いかに法律を整備しても、その上位法である憲法に根拠規定がなければ、実際には役に立たないケースである。
このように考えれば、やはり憲法を改正し、緊急事態条項を定めるべきことが理解できよう。
さらに深刻なのが、もし大規模自然災害が発生して国会が集会できない場合である。例えば、首都直下型大地震や南海トラフ巨大地震が発生し、国会を開こうとしても開けないケースが予想される。そのような場合、緊急事態に対処すべく新たに法律を制定しようとしても、それはできない。もちろん、そのような事態になれば、参議院の緊急集会など期待できるはずがない。
大正12年の関東大震災の折には、帝国議会が召集できず、山本権兵衛内閣は、憲法8条に規定された「緊急命令」を1カ月で13本も制定し、危機を乗り切ることができた。
平成7年の阪神淡路大震災の折には、1カ月で10本以上の新しい法律を制定し、危機を乗り切ったが、これは国会が集会できたからである。もし国会が開けなかったらどうしただろうか。
このように考えると、少なくとも国会が集会できないような大規模自然災害に備えて、憲法に「緊急命令」の制定権を定めておくことは喫緊の課題であろう。これなら、自衛隊の明記と違って公明党の抵抗は少ないだろうし、大方の国民の支持も得られるのではないか。
憲法改正は1回限りのものではない。それ故、憲法施行以来70年以上続いた強固な「岩盤規制」を突き崩すため、小さな第一歩でも、力強く踏み出す勇気が必要ではなかろうか。
2019年1月21日号 週刊「世界と日本」第2141号 より
憲法に自衛隊保持の明記を 本来の“日本の姿”を取り戻す一歩は憲法改正
国士舘大学特任教授 百地 章 氏
現行憲法が施行されてから今年で72年、ようやく憲法改正が現実味を帯びてきた。9条についていえば、主権独立国家に相応しく、2項を改正して自衛隊を「軍隊」にすることが、長年の目標であった。しかし、国会の現状をみれば、2項改正は非現実的である。そこで、苦渋の選択の結果、出てきたのが9条1・2項には手を付けず、新たに「9条の2」という条文を定め、「自衛隊の保持」を明記する改正案であった。
自衛隊明記の第1の目的は、違憲論の解消にある。確かに、今日では自衛隊員に対して「憲法違反」と批判する声はほとんど聞かれない。それどころか、自衛隊に対する国民の支持率は9割を超えている。
しかし他方では、自衛隊を憲法違反とする共産党などの批判や妨害活動によって、全国各地で自衛隊主催の様々な行事が中止に追い込まれるケースが多発している。また、自衛隊員の募集にも悪影響が生じている。
そこでこのようなことが起こらぬよう、速やかに憲法に「自衛隊の保持」を明記し、批判の余地をなくす必要がある。
「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえます」と宣誓し、文字通り身体を張り、命を懸けて職務を遂行しているのが自衛隊員である。だからこそ彼らの勇気と覚悟に応えるために、自衛隊違憲論を払拭する必要がある。
第2の目的は、「政府解釈」と法律にしか根拠を持たない自衛隊を「憲法」によって根拠づけ、その「法的安定性」を高めることである。
憲法について最終的な解釈権を有するのは最高裁判所であるが、最高裁はこれまで一度も自衛隊を合憲と判断したことがない。また、今後も合憲判断を期待するのは難しいであろう。
これでは、万一、政府解釈が変更されたり、自衛隊法が改正された場合には、自衛隊の存続が危うくなる。
この点、自衛隊を「法律」から「憲法」上の存在に「格上げ」し、直接、憲法によって「根拠」づけることができれば、自衛隊の法的地位は、はるかに安定する。
第3の目的は、憲法改正の国民投票によって自衛隊を憲法に明記し、自衛隊の「民主的正当性」を一層高めることにある。
主権者国民が直接主権を行使できるのは、憲法改正の国民投票だけである。
現在の自衛隊は、国民の代表である国会によって認められたものだが、主権者国民が直接、国民投票によって自衛隊を認めることになれば、その民主的正当性は、さらに高まるであろう。
自衛隊の憲法明記によって期待される「効果」としては、第1に自衛隊の社会的地位が高まる。すなわち、憲法に「自衛隊の保持」が明記され、違憲論が払拭(ふっしょく)されれば、自衛隊の社会的「地位」は間違いなく向上すると思われる。
厳しい国際情勢の中、また、度重なる災害派遣等のために、自衛隊の任務は拡大する一方だ。ところが、自衛隊員の人員は制限され、予算も少しずつ増えてきたものの限られており、自衛隊員の待遇の改善や向上は喫緊の課題である。
この点、自衛隊の憲法明記によって、自衛隊員の待遇の改善や向上が図られれば、自衛隊員の士気と誇りを一層高めることができると思われる。
また、自衛隊が憲法上の存在となれば、統合幕僚長をはじめ、陸上・海上・航空幕僚長等を天皇による「認証官」とすることが期待できよう。これは大変名誉なことだ。
さらに、自衛官の「栄典」をめぐる差別の解消も期待されよう。例えば、これまで、在日米軍の司令官(中将)には勲一等旭日大綬章が与えられてきたが、自衛隊の元統合幕僚会議議長(大将)には勲二等瑞宝章しか与えられてこなかった。このような差別も解消されるであろう。
万一という場合の「賞恤金(しょうじゅつきん)(功労金、補償金)」についても、その増額が期待できる。現在、警察官は最高9000万円、自衛官は最高6000万円となっているが、これは疑問だ。
2番目の効果として、主権者国民が自らの意思で憲法を改正し、「自衛隊の保持」を憲法に明記することは、「自分の国は自分で守る」との日本国民の意思の表明であり、これによって「対外的抑止力」が高まる。
戦後、わが国は独立国家に相応しい軍隊を持つことができなかったために、近隣諸国からさまざまな侮りを受けてきた。
しかし、国民の手で「我が国の平和と独立を守る自衛隊の保持」を憲法に明記することができれば、主権者国民の決意表明になる。近隣諸国も、「あの日本人が防衛意識に目覚めた」と畏怖するであろう。それが必ずや、大きな「対外的抑止力」となるはずである。
第3に、前文において日本国の安全のみならず生存まで他国に委ねている「他国依存型」の憲法の中に、「わが国の平和と独立を守る自衛隊の保持」を明記することによって、「自分の国は自分で守る」という意味での「積極的平和主義」への転換を図ることができよう。
これは、ひょっとしたら、戦後の価値観が大きく変化するきっかけとなるかもしれない。
第4の効果として、自衛隊を憲法に明記するための国民投票は、わが国の民主主義を飛躍的に向上させ、国民の活力の増強につながるであろう。
この点、橋下徹元大阪府知事の次のような発言は注目に値する。「大阪都構想の是非を問う住民投票によって、住民一人ひとりが地方自治について真剣に考えた結果、大阪の民主主義のレベルは飛躍的に向上した」(月刊『正論』平成30年10月号)。
橋下氏が言うように、「自衛隊明記の是非」が国民投票にかけられれば全国津々浦々の家庭や会社で、あるいは居酒屋で防衛問題が取り上げられ、真剣に論議されることになろう。
国民は戦後初めて、防衛問題と真剣に向き合うことになる。その結果、国民の防衛意識は高まり、わが国の民主主義も格段に向上するであろう。
このように、自衛隊の憲法明記は小さな一歩だが、大きな「効果」が期待できると思われる。
2018年1月15日号 週刊「世界と日本」第2117号 より
新春インタビュー
改憲は開かれた議論で国民投票へ
衆議院議員 中谷 元 氏
インタビュアー 評論家 ノンフィクション作家 塩田 潮 氏
新たな年を迎え、「新春インタビュー」第2弾として、「今年の課題」と題して、衆議院議員の中谷元氏に、2018年、日本と世界は、どのような問題に直面し、政治が果たす最大の課題は何か、さらに憲法改正への道筋、日米安保条約、天皇陛下のご退位、北朝鮮問題など、多方面にわたり、評論家の塩田潮氏がお聞きした。
《なかたに・げん》 1957年高知県生まれ。80年防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。90年衆議院議員当選、96年自由民主党国防部会長、97年郵政政務次官、2000年自治総括政務次官、01年防衛庁長官、03年自由民主党副幹事長、05年衆院総務委員長、11年自由民主党政務調査会長代理。14年防衛・安全保障法制担当大臣、15年防衛大臣、16年憲法改正本部長代理、衆議院憲法審査会筆頭幹事、17年自由民主党安全保障調査会長。著書に『なぜ自民党の支持率は上がらないのか~政変願望』など。
《しおた・うしお》 1946年高知県生まれ。慶大法卒。雑誌編集者、月刊『文藝春秋』記者などを経て独立。『霞が関が震えた日』で講談社ノンフィクション賞受賞。
「この国をどうするか」の見地で
塩田 新しい年を迎えました。昨年は約3年ぶりに総選挙が行われましたが、その結果をどのように受け止めていますか。
中谷 与党が3分の2の議席を引き続き確保した点においては、いろいろな情報が流れたにもかかわらず、国民が的確に判断されたということではないでしょうか。
今の政治で一番大事なのは景気です。日本が世界で、引き続き安定して経済発展をしていくためには、アベノミクスの下でデフレ脱却を目指す経済政策を続けていく必要があります。そのためには現在の政局、政権の安定を国民が選んだのではないかと思います。
塩田 安倍晋三内閣がアベノミクスを掲げてスタートして、5年が経ちました。株価は民主党政権の最後の頃の日経平均株価8000円台が、今は2万3000円を超えています。数字の上では景気はよくなっているのですが、国民には「景気がいい」という実感が持てない状態が続いていますが。
中谷 有効求人倍率は「1」を超えて、どこかには就職できる状況で、そういう意味では、国民の安心、安定につながってきているのではないでしょうか。
ただ問題は、消費と企業の設備投資です。少子高齢化社会で購買力が落ちている点と、物が溢れているので必要なものがないということで、数値にはなかなか出てきません。しかし東京周辺ではビルの建設ラッシュが続いており、企業の持っている資金には余裕があり、金余りの状態ではないかと思います。
塩田 安倍政権はこの5年間、いろいろな課題に挑戦してきましたが、15年9月に平和安全法制を仕上げた後の2年余りは、目立つ実績がないのでは、という見方もあります。
中谷 私は平和安全法制のとき担当大臣でした。この法制により当面の日本の安全保障に対し、あらゆる事態に自衛隊がしっかりと切れ目のない対応ができると思います。
それに加え、日米防衛協定のための新ガイドラインでは、世界の中の日米が平時から有事に至るまで、国際協力も含めて共同で対応でき、安心できる状態です。
塩田 安倍政権が掲げる「地球儀を俯瞰する外交」の成否をどう見ていますか。
中谷 昨秋トランプ大統領が来日し、「日米同盟は100%実施する」と言ったことや、北朝鮮に対しても強いメッセージを出しました。また、インド太平洋構想を日米で共同の今後の戦略として発表しました。
さらに太平洋、インド洋は単独ではなく、つながった海として、日本とインド、オーストラリアとアメリカ、これらの国々で、この地域の平和と安全を図っていこうと。いろいろな国との信頼関係もできていると思います。
塩田 ただトランプ大統領はいろいろな問題を抱え、力を十分に発揮できず、プーチン大統領は手強い。習近平は独自路線です。そのため安倍外交は、手詰まりで足踏み状態と映ります。
中谷 世界的にグローバリズムからナショナリズムの時代になり、「自国の利益がまず第一」と考える傾向にあります。その中で日本も何が国益かを考えれば、やはり日米で安全保障も経済も協力をするのが、今の日本のおかれた立場としては最優先です。
塩田 今年前半、安倍政権が直面する課題は何ですか。
中谷 経済では、デフレから脱却して成長させるために、現在編成している予算、補正予算、これをできるだけ早く国会で成立させ、それに関連する法律も図っていきたいと。
また、従来の懸案であった憲法改正については、今の安倍内閣と3分の2の安定多数の勢力、プラス今回の選挙で分裂はしましたが野党とも話し合いをし、自民党の案だけではなく、むしろ野党の提案を受け、お互いに合意を図りつつ、改正の発議の議決ができるようにした上で、国民投票にかけなければいけません。
一番大切なのは熟議、そして開かれた議論です。国民の皆さんに理解と納得と共感が得られるまで、ていねいに、オープンに議論できるようにしていきたいと思います。
塩田 自民党は、総選挙でも憲法改正を公約に掲げました。
中谷 現在、改正の議論が行われているのは4項目です。1つは憲法における自衛隊の明記。2つ目は参院選挙区の合区解消。3つ目が教育、特に教育無償化。4つ目が緊急事態条項の創設です。
塩田 安倍首相は筋金入りの改憲論者ですが、憲法上、改憲案の発議が認められているのは国会だけです。
中谷 憲法を決めるのは国民から選ばれた国会議員による議論、特に政党間の話し合いは、国家における憲法審査会しかないのです。
この憲法審査会の幹事会こそ、唯一の憲法の在り方を決める場です。そのためには各党のコンセンサスが得られるように、落ち着いた環境の中で、政局にとらわれずに、本当にこの国をどうするかという見地に立ち、「ご意見を述べてください」と言っています。そしていい案があれば、それを取り上げて、現実にまとめていくという点では、共産党以外は共通の土台ができていると思います。
塩田 今年の通常国会から、発議案の原案を取りまとめる作業を始めるのですか。
中谷 もう今しかないですね。しかし拙速に行ってはいけません。参議院における公職選挙法と、改憲の国民投票とは全く違うので、同時に開催すると大変混乱するからです。
しかし、日本の皆さんが一番心配しているのは安全保障です。北朝鮮のミサイルが次々と進化をし、中国の軍事規模も拡大し、尖閣諸島に公船がやってきています。自衛隊が憲法に書かれていないことで、非常に多岐に議論が起こっています。ですから、自衛隊を憲法に明記すること自体が、安全保障の面でも非常に大きな効果があると思います。
塩田 可決可能な発議案の取りまとめも簡単ではないと思いますが、仮に発議できたとしても、国民投票で過半数が取れなかった場合は、今後、改憲への挑戦は二度とできなくなるのではないかと思われます。
中谷 そこは大事なところですね。憲法改正をする場合には、あくまでも純粋に、この憲法の改正は「こういう理由です」と説明をした上で、国民の理解をもらい、国民の状況や賛否を十分に踏まえた上で、実施しなければいけません。特に自衛隊に関する国民投票は、失敗が許されないのです。
塩田 憲法9条の1項と2項は現行どおりで、3項か、「9条の2」を追加する案と、2項を改正する案の2案が浮上しています。どちらが有力ですか。
中谷 これは成熟するのに、時間がかかります。いわゆる集団的自衛権においては、普通の国家はフルに使えます。ところが2年前の平和安全法制では、集団的自衛権は限定されたもので、あくまでも自国の存立にかかわるとか、国民の生命、自由、幸福追求の権利、これらが根底から覆されるような事態において、必要最小限に、他に手段がないといった限定をかけています。いわば自衛の措置なのです。ですから現行の憲法の中で守るということで、今の9条2項をなくすことは、国民投票で一気に理解を得るのは、なかなか厳しいと思います。
塩田 次に天皇陛下の問題ですが、最終的に来年の4月30日退位、5月1日即位、改元に決まりました。日程決定に至る議論をどう受け止めていますか。
中谷 天皇の存在は国の有り様にとって、非常に大切な問題です。ずっと続いてきた権威ある皇室の継承については、できるだけ穏やかに、静かに、厳粛に行ってもらいたいと思うので、あまり動揺を与えるようなことがないようにしてほしいと思います。
塩田 天皇の生前退位は本来、憲法や皇室典範の改正によるべきだと思いますが、特例法で、一代限り、今回に限って認めるという形で決着しました。明治維新後、初めての生前退位です。
中谷 天皇陛下と皇后陛下は、よくおつとめになっていると思います。今でもいろいろな場所に行って、直接国民と接する姿を見て、本当に立派だと思います。陛下も失敗をしてはいけないという、精神的に重圧感ももっておられるので、しかるべき時にそのお役をバトンタッチしたほうがいいと思われたのでしょう。そういう意味では、国民の合意のもとにできたことは、よかったと思います。
政治家として都市と地方の格差是正を
塩田 朝鮮半島情勢が緊迫し、日本の安全保障も危機に直面しています。現状をどう捉えていますか。
中谷 非常に危機的な状況で、さらに緊張が一つ進んだと思います。あれだけ国連で決議をして警告をしたにもかかわらず、先だって大陸間弾道弾といわれる、1万キロを超えるような能力の新型弾道ミサイルが発射されました。北朝鮮はアメリカから何を言われようが、この技術開発をしゃにむに進めていく意欲の表れだと思っています。これは警告とか、制裁とか、圧力の段階ではなく、一つのレベルをもう通り越してしまいました。
一方アメリカは、常々、全てのオプションを考えており、軍事的な制裁もその中に入っています。従ってどうなるのか、全く予断が許せない状況です。日本はこういう中、米国が軍事行動を起こしたり、北朝鮮の内部が崩壊したり、暴発したり、それらを念頭にどうするのか。今、真剣に考えておかないといけない。
塩田 日米同盟体制の有効性が気になります。現実に攻撃を受けたときの防衛力と、攻撃させないようにするための抑止力の両方で有効に機能しているとお考えですか。
中谷 日本は憲法の専守防衛という中で、日本は楯、米国は矛と槍、そういう機能で相手国に対し打撃力と抑止力をもって国を守っているので、しっかり役割分担しながら機能していると思います。
塩田 最後に、中谷さんが政治家として、今後、どうしてもこれだけは実現したいと思っている政治目標は何ですか。
中谷 やはり国の安定です。今の自由、民主主義、基本的人権、これらをしっかり守っていける国です。日本ほど言いたいことを言い、なりたいものになれる国、弱者に対して思いやりがある優しい国はないと思います。
もう一つは、都市と地方の格差是正です。日本の文化は地方に発するところが大きい。それぞれの山の神、海の神、そういうものが廃れていくと、日本は終わってしまう。やはり昔から続く伝統文化や地域、これが維持できるようにしなければならないのです。
塩田 ありがとうございました。
2018年1月1日号 週刊「世界と日本」第2116号 より
新春インタビュー
日本は幸せに負けた国である
ジャーナリスト (公財)国家基本問題研究所理事長 櫻井 よしこ 氏
インタビュアー 政治ジャーナリスト 千葉工業大学理事 細川 珠生 氏
新たな年を迎えるにあたり、「新春インタビュー」第1弾として、「2018年、 日本を考える」と題し、ジャーナリストの櫻井よしこ氏に、中国や北朝鮮など、日本をとりまく国際問題、政治が果たすべき役割、さらに喫緊の問題である高齢化社会の在り方など多岐にわたり、政治ジャーナリストの細川珠生氏がお聞きした。
平成7年に『娘のいいぶん~がんこ親父にうまく育てられる法』で、日本文芸大賞女流文学新人賞受賞。「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本)に出演中。千葉工業大学理事。聖心女子大学卒。
今、西側陣営“価値観”の旗立てよ
細川 「2018年が、どういう年になるか」と考えた時、一つには、国際社会における日本をどうしていくか。その中でも特に、北朝鮮の問題とテロに対して、どう向き合うかがあると思います。
一方で、日本にとってアメリカは大事な国であり、中国や韓国、ロシア、東南アジアの国々との関係も重要になってきますが、日本が今置かれている立場と、これから日本が果たすべき役割についてお伺いします。
櫻井 世界は今、100年に1回という大変革を遂げており、それは日本にとって大変な危機です。と同時に、日本人がそれをどのように自覚するか、対応するかによっては、とても大きなチャンスにもなりうると思います。
目の前の一番大きな問題は北朝鮮であり、また、世界が2つの勢力の間で揺れているという意味では、中国が大変な問題国ですね。
中国は私たちとは全く価値観が異なる「異形の国」ですが、その中国がかつてないほどの力をつけて、これからも膨張していく。それに対抗し、抑止してきたアメリカが、いま大戦略を失い、漂流し始めています。
そういう状況の中、日本は、アメリカを補完する形で西側陣営の価値観の旗を立てる時で、それが求められている歴史的役割であると思います。その役割を日本の政治家、ひいては日本国民がどれだけ意識しているかが今、問われているのではないでしょうか。
細川 日本はあまりにも幸せで、明日の生活に困る状況ではないことが、一つあるかもしれませんね。このままでいくと、何十年か先に非常に困ることが、いや今も実は困っているかもしれないですが、それに気づかないのかも。
櫻井 日本は国内的には幸せな生活を保障していますが、こんな国は他にないです。たとえば、医療一つとってみても、日本ほど、ほどほどに安くて、みんなが恩恵を受けられる「皆保険制度」は他の国にはないのです。
また、国際社会では、日本は国の防衛を他国に頼る国です。お金はODAにもどんどん出すなどお金の力を使うことはできますが、武力の世界になった時に、日本国民の命を守ることはできないです。平和安全法制はできましたが、北朝鮮が有事になった時に、この法制では北朝鮮に上陸することもできません。
日本国は、国内においては極めて優しい政府で、国民を守っているかもしれませんが、対外的に「日本は国家ではない」という状況が、戦後70年間、今の憲法でやってきた現実です。
細川 悪い意味で、今の憲法の精神がよく浸透してしまいましたね。その結果、なぜいけないのかという疑問にも結びつかない。それを考えると、憲法を70年間放置してきた政府の責任は大きいです。
櫻井 国の基本は経済と安全保障、軍事です。軍事は全然できないが経済ならできるという発想は、間違っているのではないかと、70年が過ぎて痛切に感じています。ですから、日本が本当にどういう国になったのかを、憲法の1項目ずつ、きちんと検証してみないと危ない。
細川 もう一つ、日本が大きく変わったのは、人口構造です。少子化で75歳以上よりも15歳以下のほうが少ない状況になりました。その上、これまでの年功序列や終身雇用といった働き方、日本的な社会システムもなくなってきました。
それなのに教育はいまだに、これまでの社会システムを前提として、言われた通りにできる、余計なことは考えなくてもルールを守れる人間をつくろうとしています。そういう人たちでは、社会を変革していく人材としては、非常に能力が乏しいと思います。
櫻井 私は常々、「日本は幸せと豊かさに負けてしまった国」と言っています。戦後日本は本当に豊かで幸せな国になりましたが、それを維持していくには、それなりに変化し、努力していかなければならないのに、変化への努力がないのは非常に残念です。このことを、もっと私たちが社会に警告していく必要があります。
細川 国際情勢の変化に日本人が目覚めるには、まず、世の中はいつも変わっていて、国内情勢も変化していることを、自覚することですね。
櫻井 2017年10月18日から1週間、中国共産党大会が開催されましたね。やはり日本人としては、あの場で「習近平さんがどういうスピーチをしたか」を知るべきだと思います。
私はあのスピーチを隅から隅まで理解しようと、何回も読みましたが、それは恐ろしいと思いました。どの文節からも中国が世界一の民族になり、21世紀の中華大帝国を築いて、日本も含めた諸民族を従えさせる意気込み、計画に満ちていました。
習近平さんは自分が国を強くし、2035年までには経済でアメリカを抜き、建国100年の50年には軍事的にも、他に並び立つものがいない強い国となり、中華民族の価値観や考え方が世界諸国に浸透していることを望むと言っていました。
こういう価値観を掲げている習近平さんが、今、毛沢東と並ぶ偉大な指導者になろうとし、力をもっていることを、日本人は実感しないといけないと思います。
細川 国内の政治基盤を考えると、2018年は、まず安倍総理が総裁として3選を果たせるかが、大きな節目になるのではないかと思います。安倍総裁の3選なくしては憲法改正もないし、国際社会における日本の役割も果たすことができないのではないかと思いますが、どのようにご覧になっていますか。
櫻井 安倍さんとしては、経済をもっと浮上させ、国民が本当に豊かになったと実感できるところまでもっていかなければ、と思います。ただ、冷静に考えてみると、民主党政権時代と比べ、経済はものすごくよくなり、就職率も上がり、失業率は下がっています。GDPは民主党政権時代と比べて50兆円も増えていますが、まだ足りないと言っているメディアは、私はおかしいと思います。
しかも安倍さんは総理大臣でありながら、企業に対し「給与を3%上げてくれ。ボーナスをもっと出してくれ」と言いました。今までそんなことを総理大臣が言ったことはありませんでした。
本当は労働組合が経営者につきつけるようなことを、安倍さんは経済再生諮問会議など、いろいろなところで言っているわけです。こんな努力をしている総理大臣はいません。だから私は、安倍さんは3選されると思います。
細川 総裁選は2018年ですが、翌年の19年には参議院選、天皇陛下の御退位、新天皇の御即位、さらに消費税もあります。その翌年20年にはオリンピックがあり、その20年までに憲法改正を施行するとなると、19年中には改正しなければならないですね。
櫻井 こうした政治課題を考えると、2019年は本当に大変な年になると思います。それをやり抜くことは、並大抵の人にはできないと思いますが、安倍さんはそれをやらなくてはならず、難しい課題をいくつも背負わされています。
60歳過ぎたら、社会や国に恩返しを
年金受給者より、タックスペイヤーに
細川 櫻井さんは今、お母様を介護されていて、介護や高齢者問題などを実感されていると思いますが、このあたりはどのようにお考えですか。
櫻井 介護はとても大変な問題だと思います。私は一生懸命に働いて、母を守りたいと思ってやっていますが、でも一人で、きちんとお世話しようと思ったら、限界にも直面します。
我が国は、長生きする社会を選んだわけです。国民皆保険で、どの人にも「いくつになっても手術してあげますよ。望めば何でもしてあげますよ」と。だとしたら、みんな幸せに死ねますよと、死に方にも目配りするくらいでありたい。
ところが今は、お年寄りをみきれなくて、高齢者施設に預けざるを得ない状況があります。しかも施設によってはお年寄りが虐待を受けて、問題になっています。一方で、介護する人たちも、とても重労働です。
介護問題の解決策の一つとしては、消費税を上げて、介護現場に投入し、介護をする人を増やし、施設もよくすることに税金をあてることが考えられます。でも、多くの人が消費税を上げることには反対です。医療費の負担を上げるだけでも、「年寄りを殺す気か」と言われてしまいます。そこで政治家がひるんで、改善できないことは、とても不健全なことです。
細川 やはり政治家が、もう少し責任を果たすべきではないでしょうか。何しろ日本の社会保障制度は、たくさんの保険料を払ってもらわないと成り立たない制度で、しかも払う世代が減っているわけで、社会保障制度をきちんと今の人口構造に合ったものに作り替えないといけないですね。
櫻井 私は60歳を過ぎたら、これまで生かしていただいた社会や国に対し、しっかり恩返ししていかなければいけないと思います。
先日、高校の同窓生の集まりがありましたが、何人かが今は定年退職をして、「年金だけでは暮らせない」というのです。そこで私は「社会に生かしてもらって、一流企業の幹部になり、いいお給料ももらっていた人たちが、年金で暮らすとはどういう発想よ。私たちは全員、死ぬ直前まで働きましょうよ」と言ったのです(笑)。
ボランティアでもいいし、身体が動かなくなるまで働いて、年金をもらうのではなく、タックスペイヤーであり続けるべきです。それに働くことで自分の健康も保てるし、社会全体が助かります。本当にどこも雇ってくれなくなったら、「何でもいいから、地域のお役に立ちましょう」と言うことです。
また、年金がなくても生活できる人は、年金を返上したいですね。地方自治体もこの人は年金を返上してくれましたと顕彰し、また、必要になればいつでも年金を支給しますよと、国全体で公の負担を軽くすべきです。こんな財政赤字の国で、「老後が不安だからもっと年金ください」と言っているだけで、働かないのはおかしいです。
もう働きたくないという人は、働かなくてもいいのです。しかし、元気な人は働いて、年金をもらうよりはタックスペイヤーであり続ける。こうした考えをすごく大切な価値観として、この国に定着させていくのがよいと思います。
日本人は長寿社会を選んだが故に、今、このような思いもかけない問題に遭遇しているのです。それをどのように賢く、幸せに乗り切っていくか、そのロールモデルになれればすばらしい。世界中の先進国が少子高齢化社会に進んでいるので、私たちはこのモデルを他の先進国に示していけるわけです。
そして人間をできる限り充足させ、幸せにしますという国になることと、憲法を改正して、いざという時には国民の命を守りますという考えを、日本人は身に付けなければならないと思います。
細川 本当にそう思います。今日はありがとうございました。
2017年12月18日号 週刊「世界と日本」第2115号 より
憲法改正のための新思考を探る
別の「条文」の新設で自衛隊明記を
大阪大学大学院 法学研究科教授 坂元 一哉 氏
憲法制定から70年の節目にあたる今年の憲法記念日、安倍晋三首相は、憲法9条改正に関する新しい考え方を打ち出した。9条の1項、2項をそのまま残したうえで、自衛隊の根拠を明記する、という改正案である。首相はこの日、この改正案を含む憲法改正を、東京で再びオリンピックが開かれる2020年までに実現したい、との希望も述べた。
《さかもと・かずや》 1956年福岡県生まれ。京都大学法学部卒業。京都大学大学院法学研究科博士前期課程修了。米国オハイオ大学留学。京都大学助手、三重大学助教授などを経て97年より現職。京都大学博士(法学)。著書は『日米同盟の絆』(有斐閣、サントリー学芸賞受賞)『日米同盟の難問』(PHP研究所)など多数。
しかし、新しい考え方の表明の後、森友・加計問題による内閣支持率の急落で、この改正案の早期実現は遠のいたかに思われた。だが、10月の衆議院総選挙における与党の圧勝(自民、公明で3分の2以上の議席を維持)によって実現の見通しがまた開けてきている。
ただ安倍首相も言うように、憲法改正は国民が国民投票で決めるものである。衆参両議院、それぞれ3分の2以上の多数で発議した改正案に、国民(有権者)の過半数が賛成する必要がある。
賛成が反対を1票でも上回ればいいわけだが、われわれは、米国の占領下で明治憲法を改正して以来、つまり日本国憲法を制定して以来、70年間、憲法を一度も改正したことがない。立憲政治の安定のためにも、ここは国民大多数の賛成を得て、改正したいところである。
そのため改正案は、改正する理由があるというだけでなく、改正しない理由もない、となるべく多くの国民が納得するものにすべきだろう。この点、安倍首相の改正案はどうか。
まず憲法に、自衛隊の存在の根拠を示すべき理由は明らかである。
国家と国民の安全を守るための実力組織である自衛隊が創設されてから60数年になる。この組織はいまや、年間5兆円の予算を使い、世界有数の軍事力を有する組織に成長している。そういう自衛隊について憲法に一言の言及もない、という状態がいつまでも続くのは、憲法と立憲政治の健全性を害するものであり、なるべく早く改めるべきである。
憲法と自衛隊の関係をめぐる議論は、長らくわが国の安全保障論を混乱させてきた。いまでもかなりの数の憲法学者が、自衛隊は違憲という立場をとっている。また政党のなかにもそういう立場の政党がある。
しかし、もし自衛隊が違憲なら、自衛隊をなくすか、憲法を変えるかの真剣な提案が必要になるはずである。だがこの点、彼らの態度は曖昧で、安全保障論の混乱を助長するばかりである。
ただ幸い、すでに国民の大多数は、自衛隊を合憲とする政府の立場を受け入れ、自衛隊の存在を支持している。この際、憲法に自衛隊の根拠を明記して議論を整理し、安全保障論をよりストレートなものにすべきだろう。
その明記はまた、自衛隊員が名誉と誇りを持って任務を遂行する環境を整備することに大きく貢献する。それは自衛隊員の志気を高め、自衛隊の能力向上にもつながるだろう。わが国をとりまく国際環境が極めて厳しくなっているいま、そのことが持つ意義も小さくない。
安倍首相の改正案に反対する理由はあるか。安倍首相がやることには何でも反対という反対論はおくとして、反対論のなかには、2年前にできた安保法制は憲法違反であり、憲法に自衛隊の根拠を明記すれば、その安保法制が固定化されるから反対というものがある。
だが安保法制は憲法違反ではないし、仮にそうだとしても、憲法に自衛隊の根拠が明記されたからといって、法律上自衛隊に何ができるかを定めている、安保法制の廃棄や見直しができなくなるわけではない。それは別の話である。
反対論でより問題になると思われるのは、9条を改正することへの反対。また逆に、9条を改正しないことへの反対だろう。
前者は、安倍首相がいうように9条の1、2項をそのまま残しても、自衛隊明記の文言が9条に入れば、それはやはり9条の改正になるから反対、という議論である。
これは9条のなかでの自衛隊明記は、1、2項、とくに2項の解釈に変化を生じさせると心配する人々。そしてまた、理屈はどうであれ、ともかく9条はそのままにしておきたい、という人々に支持される反対論である。
後者は、9条の文言を改正しないような、とくにその2項を改正しないような改正には反対という議論である。
この議論は、戦後の憲法改正問題の焦点は9条問題、とくに9条2項にうたわれている戦力放棄の問題だったのに、それをそのままにする改正はごまかしに過ぎないと考える人々。また9条に自衛隊の根拠を付け加えた改正案に賛成すれば、それは同時に9条2項にも賛成したことになるのでは、と懸念する人々に支持されるだろう。
私はこの2つの反対論がそれなりに力を持つようであれば、改正案になるべく多くの賛成を得るという観点から、自衛隊明記は9条とは別の条文で行うのがよいと考えている。
たとえば、全部で103条ある憲法の最後に104条を新設する。そこに、日本国憲法が自衛隊のような自衛のための実力組織の保持を禁じていないこと、そうした組織の最高指揮権は内閣総理大臣にあることを明記する、というようなやり方はどうだろうか。
こういうやり方ならば、9条を改正したくない人々はもちろん、9条を改正したい人々の説得もしやすいだろう。いまは9条を改正しない。だがそれでかえって将来の改正に含みを残せる、と言えるからである。
安倍首相が提案する憲法改正案は、憲法の全面改正案ではない。戦後の憲法問題で最も重要な問題だが、あくまでひとつの問題にかかわる改正案である。そのことを物足りなく思う向きもあるかもしれない。
米国の占領下における憲法制定の経緯から、憲法の正当性には疑義があり、独立主権国家にふさわしくないので全面的に新しい憲法に改めるべきだ、というのは戦後日本の憲法改正論における有力な議論である。
ただ、いま憲法の全面改正を試みようとするのは全く現実的ではない。それを目指せば、かえって憲法の固定化につながるだけだろう。むしろ、少しずつ部分的改正を進めていき、結果として全面改正と同じ効果を得ることを目指すべきである。
憲法に新しく104条をつけ加えるという考えは、その後に105条、106条・・・と国民の合意を得られるものから改正を付加していくことを前提にする。
そうしたかたちでの憲法改正は、ただ現実的というだけでなく、国民の憲法としての日本国憲法の正当性を高めていくよいやり方になると思う。
2017年12月4日号 週刊「世界と日本」第2114号 より
<私の憲法論 第十二回>
理解の余地ある「安倍憲法改正案」
麗澤大学教授 八木 秀次 氏
世界でも稀な高いハードルの改正要件
現行の日本国憲法は、我が国が大東亜戦争に敗れた後の占領下に制定された。当初、日本政府が原案を作成したが、連合国軍総司令部(GHQ)に拒絶され、代わってGHQ民政局のスタッフが英文で起草した。翻訳作業を入れて6日間、正味、2日間の作業であった。世界中の憲法や歴史的な政治文書を参照してパッチワークのような作業を行った。左派のニューディーラーもいた民政局では、ソ連のスターリン憲法も大いに参照された。
GHQは、この起草案を受け入れないと天皇を戦犯にすると日本政府を脅して押し付けた。日本政府には拒否権はなく、受け入れざるを得なかった。審議した帝国議会もGHQの監視下で自由な議論はできなかった。日本側からの修正は国会を二院制にしたこと、国内の社会主義・共産主義者とGHQの連携で、生存権の規定を追加したことくらいだった。
この憲法の制定の最大の目的について、民政局次長として現場責任者だったチャールズ・ケーディスが「日本を永久に非武装のままにすること」だったと後に語っている(古森義久著『憲法が日本を滅ぼす』海竜社)。
彼らの思いは、端的に憲法9条2項に「戦力の不保持」として規定された。日本に戦力を持たすと世界の平和を乱し、米国の脅威になるという認識からだった。武装解除し、そのまま非武装にする。懲罰的な意味を持っていた。
しかし、昭和25年6月に朝鮮戦争が始まった。共産主義陣営の脅威が朝鮮半島に、そして日本に押し寄せるに至って占領政策は大きく転換した。「再軍備」へと大きく舵をきったのだった。同年8月には早くも警察予備隊が設置され、その後、保安隊、自衛隊へと発展していった。
昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約が締結され、同時に日米安全保障条約が結ばれた。両条約は昭和27年4月に発効され、日本は主権を回復したが、自由主義陣営の一員、米国の同盟国として国際社会に復帰した。
昭和28年11月、初の国賓として米国からニクソン副大統領が来日するが、非武装規定を持つ憲法を押し付けたことを「善意の誤りを犯した」と悔い、日本の軍備増強を希望した。もうこういう事態になれば、9条2項との矛盾は明らかであり、憲法改正は不可避だった。
昭和29年12月に発足した鳩山一郎内閣は、憲法改正を政治日程に載せ、その後、3度にわたって憲法改正を争点にした国政選挙が行われた。また、憲法改正を目的として保守合同が行われ、昭和30年11月、自由民主党も結党された。自民党は「党の政綱」に「現行憲法の自主的改正」を掲げた。
しかし、3度の国政選挙も、憲法改正の発議に必要な衆参両院の3分の2以上が確保できなかった。「非武装中立」を標榜し、共産主義陣営に融和的な社会党が、3分の1以上の議席を確保したからだった。
その後、石橋湛山、岸信介の両内閣を経て池田隼人内閣になると、経済政策を優先させ、憲法改正は断念された。そして、「戦力」の不保持を謳う9条2項を維持したまま自衛隊を保持する、という今日の状態が作り上げられるに至った。
ここで、ケーディスの「永久に非武装のままにする」という発言を思い起こしたい。彼らは非武装化を規定した9条2項が、容易に改正されないように憲法改正の要件を難しくした。
日本側が提案した二院制を利用して、衆参両院の総議員の3分の2以上の賛成で発議し、さらに国民投票で過半数の賛成が必要であるという、世界でも稀な高いハードルを設定した。朝鮮戦争を契機に非武装化は避けられることになったが、9条2項を維持しながら自衛隊が存在するという「矛盾」を抱え続けることになった。
日本政府はこの矛盾について、自衛隊は9条2項が保持を禁止している「戦力」ではないとしながら、我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るために必要最小限の自衛の措置を取ることは、9条2項が認めるところだと説明してきた。
さらに我が国のみならず、我が国と密接な関係のある国が武力攻撃を受けて、我が国の存立や国民の命と平和な暮らしが脅かされる場合にも自衛の措置が取れる、という政府解釈の一部変更を平成26年7月に行って、集団的自衛権の限定行使も可能にした。
文理解釈としては苦しいところもあるが、憲法改正が容易でない現状の中で、現実的な安全保障政策を採るに当たっては仕方ない面もある。
今年5月、安倍晋三首相が9条1項、2項を維持しながら自衛隊を憲法に位置付けるための憲法改正を提案した。自衛隊は「戦力」ではないという解釈を維持しながら、「戦力」ではない自衛隊を憲法に位置付けるという提案だ。現状追認の改正案と言ってよい。
かつてとは異なり、衆参両院ともに憲法改正に賛成の政党が3分の2以上を占めるとはいえ、公明党のように憲法改正に消極的な政党もある。かつての社会党の係累の政党や共産党のように9条に指一本触らせないとする勢力もある。国民投票で過半数の賛成も得なければならない。そういった現実を踏まえての改正案と言ってよい。
確かに憲法の規定と現実の安全保障政策の矛盾を根本的に解消するためには9条2項の改正が不可欠だ。しかし、そのような案がそのまま実現するほど現実は甘くない。また、そのような主張は現行憲法制定後、今日に至るまで絶えず行われてきたが、現実は1ミリも動いていない。
そうであれば、妥協と言われても、まずは自衛隊を憲法に位置付けるという首相の案も理解の余地はある。「戦力」でない自衛隊とは何ものかという問題は残り続ける。「軍隊」でないことによる制約もある。
しかし、憲法上の正統性を付与することは自衛隊の存在意義を高め、自衛官の士気も高める。このことが我が国の抑止力向上にも繋がる。最初の憲法改正案としては支持したい。
2017年6月19日号 週刊「世界と日本」第2103号 より
<私の憲法論 第十一回>
知的に誠実な「9条論議」を望む
「平和のための軍事力、自衛隊」を明記せよ
防衛大学校教授 神谷 万丈 氏
安倍晋三首相が憲法9条に、自衛隊の存在を明記することを提唱したことで、9条の改正論議がにわかに現実味を帯びてきた。私は、憲法9条をこれまで通りに残したい、という意見もあって当然だと考えている。日本は、成熟した自由民主主義国家だ。国のあり方の根幹にかかわる問題について、全国民が一致した立場をとるはずはなかろう。
《かみや・またけ》 1961年京都市生まれ。東大教養学部卒。コロンビア大学大学院(フルブライト奨学生)を経て、92年防衛大学校助手。2004年より現職。この間、ニュージーランド戦略研究所特別招聘研究員等を歴任。専門は国際政治学、安全保障論、日米同盟論。現在、日本国際フォーラム理事・上席研究員、日本国際問題研究所客員研究員、国際安全保障学会理事。主な著作に『新訂第4版安全保障学入門』『新段階の日米同盟のグランド・デザイン』『日本の大戦略』など。
戦後の日本人は、国策の手段として軍事力を否定するという「国の姿」を選びとり、それを原点として今日の繁栄を築いてきたのだから、その姿を変えようとすることは認められない。私は、そのような意見もあり得ると思う。
だが同時に、私は、そうした意見を持つ人たちを含めて、全ての日本の国民に対し、9条を今後どうすべきかを考える際には、知的に不誠実な態度はとって欲しくないと思う。
平和主義を掲げる日本には軍事組織は不要だ。国民の安全と繁栄は自衛隊ではなく、非軍事的な手段によって達成すべきものだ。憲法に自衛隊を明記するようなことがあれば、そうした日本の平和主義の理想が壊れてしまう。だから、安倍首相の提案に反対する。私はこのような考えには与しないが、論理的に筋が通っていることは認める。
あるいは、より素朴に、軍隊が嫌いなので自衛隊も認めない、だから憲法に自衛隊の存在を書き込むなど論外だ、と考える人もいるだろう。こうした意見も、論理的には成り立ち得るものだと思う。
だが、現実には、このような論理で安倍首相の提案に反対できる国民は、ごくわずかしかいないはずだ。なぜなら、今や日本には、自衛隊が国民の安全や暮らしを守る上で果たしている役割を否定する人は、ほとんど存在しないからだ。
2015年1月に内閣府が実施した「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」によれば、92.2%の回答者が自衛隊によい印象を持っていると答えている。
また、日本と中国、北朝鮮、ロシアなどの周辺諸国との軍事力の規模を示した上で、今後の自衛隊をどうすべきか尋ねたところ、「縮小した方がよい」との回答がわずか4.6%だったのに対し、「増強した方がよい」が29.9%、「今の程度でよい」が59.2%だった。
さらに、自衛隊の災害派遣活動を評価する者は98.1%、国際平和協力活動などの海外での活動についても、評価する者が89.8%にのぼっている。
これらの数字が示しているのは、今の日本には自衛隊が嫌いだという人はわずかで、約9割の国民が、自衛隊の活動が自分たちの平和や繁栄のためになっている、とみている事実に他ならない。
自衛隊をこのような目で見ている人たちが、自衛隊の存在を憲法に明記することには反対や躊躇を示す。私が知的に不誠実というのは、そうした態度のことだ。
国の防衛のためであれ、大地震や洪水などの際の救護のためであれ、あるいは国際平和のためであれ、自衛官は、この国に暮らす全ての人々のために、苦しい危険な任務にも立ち向かってゆく。
自衛隊のそうした活動が、自らも含めた日本の人々のために役立っていると考えるのであれば、自衛隊の存在が憲法上はっきりと位置づけられておらず、憲法学者の多数がそれを違憲と主張し続けているというような状況に、目を閉ざし続けてよいはずはない。
自衛隊は違憲だから自分には必要ないと考えるのか、自衛隊は必要だから合憲でなければならないと考えるのか。このいずれかをはっきりと選ぶのが、知的に誠実な態度というものだろう。
だが、安倍首相の提案を受けて実施された各種世論調査の結果をみると、相当数の国民が、自衛隊の存在を憲法に明記することに対して前向きではない。
たとえば、5月20~21日の毎日新聞の調査では、首相の提案への賛成が28%であったのに対し、反対が31%、わからないとの回答が32%を占めた。国民の9割が自衛隊の活動に肯定的評価を与えているという現実と、安倍提案に対する国民の、こうした反応の間には明らかに齟齬(そご)がある。
その原因は日本人の間に、平和と軍事力を180度対極にある、相容れない概念ととらえる傾向が今なお強いことにある。確かに軍事力は人を殺傷する危険な装置だ。それは、使い方によっては平和を壊す。だが一方、軍事力には平和を築き、守る上で不可欠な役割もある。
戦後の日本人は、軍事力の持つこうした二面性を十分に認識してこなかった。平和を求める国家には、時として軍事力を「使う」意思も求められるのだという現実を直視できている日本人は、今でも多くはない。そのため、日本人の多くは、「平和のための軍事力の役割」を認めることに今なお強い抵抗を示す。
日本人の多くは、自衛隊を国民の安全と繁栄に役立つ組織だと認めると同時に、戦後の平和主義に誇りを感じている。そして、日本人の間には、自衛隊に対する肯定的評価と、平和と軍事力を相容れない概念とみる傾向が、奇妙な形で並存している。
こうした複雑な心理構造があるがゆえに、多くの日本人にとっては、平和主義の象徴たる憲法9条に軍事組織たる自衛隊の存在を明記することが、矛盾した行為として認識されてしまうのだ。
だが、そのような見方は間違っている。現実の世界では、軍事力に支えられない平和は存在し得ないのだ。私は、自衛隊が自分たちの助けになる組織だと考えている9割の日本国民には、この点を理解した上で、自衛隊は必要だが、その合憲性については、あいまいなままでもしかたがない、というような知的誠実さを欠く立場をとらないことを望みたい。
2017年6月5日号 週刊「世界と日本」第2102号 より
内外ニュース「創業45周年記念特集号」憲法インタビュー
未来に生きる世代が頑張れる国創りを
拓殖大学学事顧問・前総長 渡辺 利夫 氏
インタビュアー 内外ニュース・取締役(企画担当) 紺田 康夫
内外ニュース「創業45周年記念特集号」の第3弾として、「教育対談」「エネルギー座談会」に続き、「憲法インタビュー」を実施した。いま日本を取り巻く国際環境は、多極化、多様化のなかで、極東アジアはもちろんのこと、まさに混迷を深めている。また今年は、憲法施行70年目の節目にも当たり、次なる70年に向かって自らの手で切り拓く「未来に生きる世代が頑張れるような国創り」をめざし、「国の道筋を明確にする」「家族、共同体、国家の尊厳とは何か」などを中心に、拓殖大学学事顧問の渡辺利夫氏に、特に憲法と国体(国柄)の在り方についてインタビューをした。
《わたなべ・としお》 1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て現職。外務省国際協力に関する有識者会議議長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『放哉と山頭火―死を生きる』(ちくま文庫)など多数。
紺田康夫
憲法には「守るべき日本の国柄」明記を 日本は「同質性」「連続性」の唯一の国家
紺田 最初に、昨年9月に成立しました、平和安全法制について、ご感想をお聞かせください。
渡辺 大騒ぎの末にようやく成立。多少、安堵はしています。
「集団的自衛権行使容認」により、これまでの懸案が解決の方向に向けてハーフステップ前進できました。ただし、ここでの集団的自衛権は極めて限定的な行使容認で、日本の存立が根底から覆される「存立危機事態」のような場合に初めて発動できるものとされています。
しかし、それがどのような事態なのか、少々不鮮明です。しかも、あのように限定的に条文を設定してしまうと、実際に事が起こった時に、現に今、その状態がやってきそうですが、官邸も自衛隊も極めて動きにくいのではないかと思います。
ところで問題は、個別的自衛権や集団的自衛権の議論においては、そのテーマが「いかに国を守るか」ばかりに集中して、「何を守るのか」という議論が全くなされていないことです。こんなことでいいわけがない。
紺田 憲法の前文には、何を守るのか、国体が書かれていないということですか。
渡辺 日本の歴史、文化、伝統を含め、「国体」というよりは「国柄」です。どういう国柄の日本をつくるべきか、その国柄をどのように守るかということです。しかし、憲法の前文には、国体はもとより国柄も書かれていません。ほとんどの国の憲法には、「守るべき祖国とは何か」が書いてあります。憲法は、そのためにこそ存在するわけですからね。
ところが我が国の憲法は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあります。
日本を守るために日本人は、自分の手は汚さずに、「あなた任せ」になっています。独立自尊の精神が、全く見られません。まことにひどい「他力本願」で、これが憲法の全体系の精神をうたうはずの前文にあることが、いかに大きな制約になっているか。
紺田 日本の国柄をどのように考えていけばとお考えですか。
渡辺 私はそのことを考えるにあたって、「同質的」と「連続的」という2つのキーワードをあげたい。
日本ほど同質的な国家は、世界のどこにもありません。その「人種的同質性」は科学的にも論証されています。
アイヌのようなマイノリティもありますが、それを除けば全く同じ人種が一民族になり、一国家になっています。他の国はみんなパッチワーク、多人種の混交なのです。
次に、「言語的同質性」もあります。日本語の起源はどこかについて、さまざまに論じられてきましたが、結局、日本語の起源はどこなのかは分からない。起源は不明なのですが、日本列島の中だけで使われつづけたことは間違いないことが立証されています。
さらには「宗教的同質性」です。日本には唯一絶対の神がいると考えている人は、ほとんどいません。
むしろ、山、川、草、木といった、生きとし生けるものの全てに神が宿っている、神だらけの国と言ってもいいでしょう。宗教を原因とする戦いは世界のどこでもみられますが、日本にだけは宗教戦争はありません。
私は、同質的という言葉で、まずは日本の国柄を語ることができるのではないかと。
紺田 もう1つの「連続的」というキーワードは、どのように考えればよいのでしょうか。
渡辺 同質的であるがゆえに、連続的である。連続的であったがゆえに、同質的であるとも言えます。
連続的と言われた場合に、私がすぐに思い浮かべるのは、伊勢神宮の式年遷宮です。20年に1回、隣の敷地に、全く同じ素材を使い、同じ技術により宝物を造って移し変えます。これが690年の持統天皇の時代から62回繰り返されてきました。
これはもう日本の歴史の連続性を示すもの以外の何ものでもありません。
もう1つは天皇です。今上天皇は125代の陛下です。世界の中で、王様にしろ、皇族、皇帝にしろ、万世一系の天皇というものはどこにもいません。日本の天皇は、連綿としてつづく日本の歴史の連続性の象徴なのです。
紺田 憲法の第1条に、「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」と書かれていますね。
渡辺 これ自体はいいでしょうね。象徴は目に見えないものを「見える化」することなので、例えば日の丸を見た時に、君が代を歌う時に、「ああ、これが日本なのだ」と思ったりしますよね。それが象徴です。
日本の天皇は他の誰しも持つことのできない権威そのものです。権力と権威を分離して、権威のみがずっと持続されてきたのは、これは日本人の相当な知恵だと思います。
紺田 先生は以前から、「憲法第13条と第24条が、共同体と家族の崩壊をもたらした最悪のリベラリズム思想の、憲法上の根拠である」とおっしゃられていますね。まず憲法第13条には、「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれていますが。
渡辺 個人は英語では「インディビデュアル」ですが、福沢諭吉はこの英語を見て、訳すに訳せなかったと言っています。日本には存在しない観念ですから。それで彼は、「独一個人」と訳したのです。もうこれ以上分けることができない「個」というわけです。
「個人」というのは絶対的存在であり、権力者が個人の自由や権利を侵すことができないようにしなければならない。これがフランス革命の思想です。個人が何にも勝り、尊重されなければならないという思想です。
しかし、このような伝統が日本にあったでしょうか。日本では全ての人間は家族、血縁の成員なのです。つまり「個人として尊重される」という考え方は、今なお日本人の中に根付いていません。
にもかかわらず、個人を尊重し、共同体を破壊しつづけています。「個人の生存権」ばかりがうたわれ、「家族の生存権」がないがしろにされ、家族が崩壊し、少子高齢化という取り返しのつかない人口構造に日本はなってしまいました。
日本人は「個体至上主義」から脱却せよ 「憲法9条改正」が安倍政権の正念場
紺田 次に、憲法第24条には「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」と書かれています。
渡辺 自由なる個人と個人が、誰の介入もなく結びついてできあがるものが婚姻であり、同時に両性は平等であるというわけですね。
しかしこの中には「婚姻とは、家族という共同体の一番基礎的なベースである家族をつくるものだ」という感覚が、どこにもありません。
出生率の低下が著しいですね。昨年は出生数がついに100万人を割りました。日本の人口は2004年の1億2708万人をピークに、いずれ8000万人になるということですが、これでは日本という国家が存立できません。自衛隊は成り立たない。警察は機能不全になる。周辺諸国との国力の差が大きくなり、二流国から三流国に落ちてしまいます。第13条と第24条は、「我が内なる敵」なのです。
東日本大震災の時の廃棄物の問題は、今なお残る大問題です。大地震発生間もない段階で、がれきは発生地、つまり県内処理という原則が立てられました。そして県内処理できない分を、公域処理と言って、他県が引き取ることになったのですが、各県の反勢力が「俺のところでは絶対に受け入れない」と、大騒ぎになりました。
自分が困っている時に、他に助けを求めるのは当然なのに、他人が困った時には自分は関係ない、助けようとはしない。
このような激しいエゴイズムが、蔓延しています。私は日本人の言う個人主義は、「個体至上主義」だと思っています。生きている自分だけが大事であるという意味で、個体至上主義だと思うようになりました。こうした観念をつくり出したのが、憲法の第13条と第24条にあると私は見ています。
紺田 憲法第9条に移りますが、この第2項が問題であると。
渡辺 憲法第9条第1項の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というのは、このままでいいと思います。
問題は憲法第9条第2項の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」にあります。これでは自衛隊の存在は明らかに違憲となってしまいますし、集団的自衛権の行使が容認されたといっても、自衛隊にできることには限りがあります。
米ソ冷戦の中で日本は、アメリカの核の傘の下で経済成長をし、国防のことなど考えもせずに豊かな生活を享受してきました。
しかし、冷戦が崩壊して以降、人種や宗教、言語を要因とする対立が、すさまじいものになってきました。そのうえ、朝鮮半島が危うくなり、中国の海洋膨張もあります。
集団的自衛権は保有するが行使できないという政府解釈だけでは、とてもやっていけないという状況になり、平和安全法制ができたわけですが、残念ながらこれでは急場には間に合わないだろうと思います。
紺田 憲法第9条を改正できるかどうかにかかっているわけですね。
渡辺 ここが安倍政権の最大の力の見せどころになってくるでしょう。第9条第2項を変えないで、この解釈をもう一歩出たら、憲法違反になりかねません。だから安倍さんも「9条を守る。変えない」という前提で、憲法解釈のマキシマムをやってみせたというのが平和安全法制です。
しかし、もうこれも限界であり、やはり9条2項を変えて、「戦力を持った国軍を保有する」ということにしないと、どうにもならないと思います。最近は第1項、第2項はそのままにして、第3項をつくりたいと安倍さんは言っていますね。
紺田 憲法第9条第2項を変えるために必要なことは何ですか。
渡辺 今の極東アジア地政学は非常に危ういのですが、この危うさの中で、日本をどうするかという選択を究極的に国民に迫る状況が出てこないと、第9条を変えるという方向に舵が取れないのでしょうね。困った国論ですよ。
日本という国は、国際的利益は享受しながら、国際的な協力や自分の犠牲を払うことに対しては、非常に強く逡巡する国家という意味で、エゴイストです。
現実となった今の軍事的脅威、例えば北朝鮮の金正恩が核ミサイルの発射ボタンを押す可能性はあるわけです。そのための議論がなされないでいいわけがありません。
「策源地攻撃」について、これから国会で議論しようという空気がようやく出てきたのですが、北朝鮮が今にもボタンを押そうと思っているのに、今から議論していたのでは間に合いません。しかも議論したところで、次の制約があります。
それは、策源地攻撃をしてもよいという法律をつくっても、攻撃するための実際のハードウェアがありません。「専守防衛」という考え方は今も生きているので、そのための対地ミサイルや攻撃機などのハードウェアを持とうとなっても、4、5年はかかるのではないでしょうか。
だから、「対米従属」などという自虐的な物言いはやめて、日米同盟の信頼関係をより深め、その抑止力により、敵の行動を抑止することが目下の最重要命題です。日本が生き延びていくために、日米同盟の抑止力を最大限有効に使いながら、その間に、日本の自主防衛力を高めていくという決断を今、選択しなかったら、将来の日本は危ないと思います。
紺田 今日は本当に多岐、多方面に亘ったお話をありがとうございました。
2017年3月6日号 週刊「世界と日本」第2096号 より
<私の憲法論 第十回>
憲法が危うくする日本の安全保障
日本大学法学部教授 東 裕 氏
トランプ大統領の登場という「外圧」が、憲法九条改正の扉を開ける後押しとなるかもしれない。駐留米軍経費問題より、憲法制度の「構造の改革」要求に備えるべきではないか。2月に来日したマティス米国防長官は、稲田防衛相との会談で駐留経費には触れず、日米安保条約第五条の尖閣諸島への適用を言明した。だが、この第五条には要注意である。
《ひがし・ゆたか》 昭和29年、和歌山県生まれ。早稲田大学政経学部卒業、同大学院政治学研究科博士後期課程満期退学。専門は憲法学・太平洋島嶼地域研究。苫小牧駒澤大学教授等を経て、平成27年4月より現職。著書に『太平洋島嶼国の憲法と政治文化』(成文堂)、『日本国憲法講義』(成文堂)、『人権の条件』(嵯峨野書院)など。
日米安保条約第五条は次のように規定する。
「各締約国は、日本国の施政下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和と安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」。
ポイントは2つだ。
第1は、各締約国が「自国の平和と安全を危うくする」と認めなければ共同行動は発動されないこと。我が国に対する武力攻撃が行われても、米国が自国の平和と安全を危うくするものでないと判断すれば、米国は共同行動をとる義務はないのだ。
第2は、各締約国は「自国の憲法上の規定及び手続に従って」行動すること。我が国は憲法九条を盾に消極的行動にとどまることも法的には可能なのだ。
その前提で、「アメリカ・ファースト」で解釈すればどうなるか。答えは自ずと明らかだ。日本に対するあらゆる武力攻撃に対して米国が共同行動をとる義務はない。いかなる場合にも米国が日本を守ってくれる保証はないということだ。
一方、日本が憲法の制約を理由に、米国が必要と考える措置を拒否したとき、瞬時に相互安全保障関係は崩壊する。では、どうすればいいか。あまりにも自明のことだが、自国の存立と安全を自国で守る気概をもち、それを可能にする体制を構築することではないか。国軍の保有と自衛権の行使を明文化する憲法改正の実現ということだ。
今や憲法は実効的な安全保障の阻害要因となっている。憲法九条二項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と定める。
素直に読めば、自衛隊は違憲、自衛戦争もできない、となる。昭和21年の第九〇帝国議会で吉田茂首相は、九条は一切の軍備の不保持と自衛戦争の放棄をも定めたものと答弁した。我が国に主権がない占領下の解釈だった。
それが昭和27年4月28日の平和条約の発効により主権を回復した後に政府解釈は変わる。「戦力」とは近代戦争遂行に役立つ程度の装備・編成を備えるものと政府は答弁したのだ。同年11月、時の内閣は第四次吉田内閣だった。
自衛隊発足から5年後の昭和34年には、最高裁が「砂川事件判決」で自衛権・平和主義・自衛の措置について解釈を示した。
(1)憲法九条により、我が国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではない。
(2)我が憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたのものではない。
(3)自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは国家固有の権能の行使として当然のこと。
政府解釈の変更や最高裁の判断は、状況の変化に応じて憲法の現実的妥当性を確保するためになされてきたものだろう。
平成27年の集団的自衛権の限定的行使を容認した政府解釈も同様である。激変する安全保障環境の中で国家の存立と安全を維持するための法制度を整備し、かつ憲法規定と整合性を確保するための苦肉の解釈といえた。
しかるに、衆議院憲法審査会での自民党推薦を含む3人の憲法学者の「違憲」発言をきっかけに、メディアでは「立憲主義破壊」や「違憲法案」の大合唱が起きた。世論も同調したが、法案を成立させた安倍政権への支持率は60%前後で推移している。これは我が国の「トランプ現象」なのだろうか。とはいえ、憲法解釈の変更が限界に来ていることは否定できない。
さて、ここで論点を整理しよう。
第1に、憲法九条は我が国の実効的な安全保障政策の実施を阻害している。護憲派はこれを「歯止め」と呼ぶが、「歯止め」は日本国政府ではなく、九条を改正して近隣の某国に掛けた方が安全というものだ。
第2に、憲法九条の前提にある国際社会観は時代に適合していない。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」(前文二項二文)は一体どこにあるというのか。その実現には一定の軍事力が不可欠である。
第3に、憲法の掲げる安全保障方式は国家の安全を危うくする。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文二項一文)のは占領下。戦後の歩みをみれば、日本ほど平和を愛する国民に満ちた国はない。国際社会の安全を脅かしてきた「諸国民」は、旧連合国の中にこそいたのではないか。
かくして憲法九条および前文の改正こそ、最大の安全保障の強化策であり、憲法改正の眼目となる。トランプ大統領を誕生させたこの時代は、我が国の安全と国際社会の安定に寄与する憲法に改める千載一遇の好機かもしれない。
自衛隊を国軍と位置づけ、その統制と行使の限界を定め、緊急事態を想定した規定をおいた憲法の創造。「戦後レジーム」を超克する主権独立国家日本の憲法的表現である。
70年前の昭和22年、美濃部達吉は『新憲法概論』でこう記している。「独立国としての生存を維持するには軍備は欠くべからざる必要であるが、敗戦国としての日本はその独立を失い、憲法前文に言明せるごとくにその安全と生存をあげて世界諸国の公正と信義とに委ねるほかなきに至ったのである」。
ポツダム宣言の受諾・敗戦・占領という現実を前に「新憲法」を解説する憲法学者の無念さと諦観が滲む。主権独立国家であって憲法はその効力をもつ。国家あっての憲法。その逆は真ならずだ。
2016年7月18日号 週刊「世界と日本」第2081号 より
<私の憲法論 第九回>
改憲プラグマテイズムが必要だ
時代適合性を反映した改正を
防衛大学校名誉教授 佐瀬 昌盛 氏
日本国憲法についてまず確認を要するのは、それが敗戦の翌年、昭和21年11月3日に公布された事実である。わが国の敗戦から1年2カ月余の歳月が経っていたとはいえ、戦後初期のことであった。無論、日本の主権はまだ回復されていなかった。主権なき下で国家の骨格に関わる憲法が設立されたというのは、どうみても異常なことである。
《させ・まさもり》 昭和9年、大連生まれ。東大教養学部卒、同大学院(国際関係論専攻)修了。ベルリン自由大学に留学したのち、成蹊大学助教授、防衛大学校教授、拓殖大学海外事情研究所所長などを歴任。著書は『チェコ悔恨史―かくて戦車がやってきた』『戦後西ドイツ社会民主党史―政権の歩み』『集団的自衛権―論争のために』など多数。第25回正論大賞受賞。
異常さはそれだけではない。新憲法の原案、すなわち草案をつくったのは日本人ではなく、連合国最高司令官たるマッカーサー将軍と、補佐したGHQ官僚たちであった。ここに後年まで論争の的になった「押しつけ」憲法是非論の発端がある。
日本政府は、昭和21年2月13日にGHQが日本政府に提示した「マッカーサー草案」をもとに、新しく自身の憲法草案を起草し、これが旧憲法の定める手続きを経て、日本国憲法として成立したのである。
日本国憲法のこのような成立過程は、第二次大戦におけるもう一つの敗戦国であったドイツ―と言っても、西ドイツのことだが―のそれと大きく異なっている。
ドイツの憲法に相当する「基本法」は1949年(昭和24年)5月23日に制定されたが、今日までの67年間に計58回も改正されている。いわゆる硬性憲法を持つ国で、これほどの改憲を経験した例は他に見られない。この事実は、戦後の日独両国民の憲法観が大きく違っていることを物語っていると言えよう。
ドイツは第一次大戦後の1919年7月末に制定された「ワイマール憲法」の苦い歴史から多くを学んだ。当時、最も民主的と謳われた同憲法は、形式的には第二次大戦後の1945年6月まで存続したものの、実質的には1933年1月末のナチス政権の成立とともに失効したも同然であった。
第二次大戦後のドイツは、この過去から多くの教訓を引き出した。憲法は改正されないことに、その価値があるのではない。社会の現実に合わなくなることが危険である、と言うのだ。
このため、1968年6月、猛烈な社会的反対にも拘らず非常事態規定(正確には「第10a章・防衛事態」)全12条が基本法に盛り込まれた。他面、時代適合性の疑わしい条項は続
々と消去されるので、今日の基本法は文字どおりズタズタ状態である。
それは今日のドイツの憲法観がきわめて実用主義的であることを示している。制定以来、文字どおり一字一句も変更されていない日本国憲法とは、あまりにも好対照と言わねばなるまい。
わが国では憲法前文に見られる、あまりにも翻訳調(一例として「・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し・・・」傍点引用者、以下同じ)である欠点をはじめとして、九条および「第九章改正」の規定に時代適合性を疑われる個所が少なくない。
同章第九六条によると、衆参両院の「總議員の三分の二以上」の賛成と「特別の国民投票」における過半數の賛成票なくしては、憲法改正は不可能である。しかし、この二重のハードルをもってしては、憲法改正を禁じているに等しいと言うことになろう。
また従来、指摘されることは少なかったが、現行憲法は旧仮名づかいで書かれている。たとえば前文中の「・・・この法則に従ふことは、自國の主權を維持し、他國と對等関係に立たうとする各國の責務であると信ずる」はその一例である。
が、この旧仮名づかいは1946年にGHQの方針によって戦後教育では教えられないこととなった。もっとも故・福田恒存氏や小堀桂一郎氏は、「現代かなづかい」に対する批判論者として知られてきた。
しかし、今更、旧仮名づかいに戻すすべもない。また、私が「旧仮名づかい」と書くのも、厳密に言えば「旧假名遣い」でなければなるまい。しかし、旧仮名づかいは今となっては「沈んでしまった夕日」であり、それをもう一度、呼び戻すことはできない。
それにつけても滑稽なのは、世の進歩主義的護憲論者であろう。彼らは憲法の一字一句たりとも改憲すべからずと主張するくせ、他面、さもなくば反対する旧仮名づかいの延命に手を貸している。その馬鹿気た姿に気付いていないのである。私は無論、改憲論者であり、その第一歩として現行憲法をまず最低限、現代仮名づかいで書き変える必要があると考える。
現行憲法には非常事態への対処規定の欠落を始めとして幾多の問題がある。それらを如何に扱うべきかについては、田久保忠衛氏を始めとして合計5名のメンバーが「産経」新聞社から『国民の憲法』を出版した(平成25年7月刊)。私はそれに参画したが、5人が5人、この共同著作に100%満足したとは思えない。私の場合、85点程度は付けてよいと考えている。
なお、主要な複数の戦後民主主義国のうち、米国、フランスは大統領制を採っている。英国は議院内閣制ではあるが、わが国とは違って、いわゆる軟性憲法を持つ国である。改憲という概念がこの国にはない。
したがって、われわれが改憲問題を議論するうえでは、これら3国はあまり参考にはならないと考えられる。
とすれば、日本の参考になるのはドイツであろう。先述したようにこの国は50回を超える基本法修正、非常事態規定を盛り込むうえでの血の滲むような苦闘を重ねてきた。そのプラグマティズム(編集註=真理、信念、習慣も全て、実験・実践・行動を通して形成され、修正され、破棄される、という考え方)と不屈の努力には、わが国にとり参考になるものが少なくないと考える。
2016年5月2日号 週刊「世界と日本」第2076号 より
<私の憲法論 第八回>
憲法誕生の“秘史”に触れる
安全保障では「半国家」の特異性
国際ジャーナリスト 古森 義久 氏
日本国憲法の改正の是非が国政の主要課題となってきた。この課題と正面から取り組むには、憲法誕生の経緯と憲法自体の特異性をまず考えることが欠かせない。歴史の大きな潮流のなかでの日本国憲法とは、そもそもなんだったのか、という考察である。
《こもり・よしひさ》1941年東京生まれ。慶大卒、ワシントン大留学。毎日新聞サイゴン、ワシントン両特派員を経て産経新聞に転社。ロンドン、ワシントン両支局長、中国総局長を歴任。ボーン国際記者賞、日本記者クラブ賞などを受賞。現在、産経新聞ワシントン駐在客員特派員、国際教養大学客員教授。著書に『ベトナム報道1300日』『いつまでもアメリカが守ってくれると思うなよ』『中・韓「反日ロビー」の実像』『迫りくる米中新冷戦』ほか多数。
日本国憲法は、日本がアメリカをはじめとする連合国の占領下にあった1946年(昭和21年)2月はじめ、10日間ほどで米軍の将校十数人により一気に書かれた。
その草案は、拒否をする自由のない日本側にそのまま付与された。その意味では押しつけだった。日本のいまの護憲勢力は、憲法のこの起源には奇妙なほど触れようとしない。
私はその憲法の起草作業の実務責任者だったチャールズ・ケーディス氏に4時間ほどインタビューして、憲法作りの実態を詳しく問うたことがある。同氏は、起草当時は陸軍大佐で、その以前からアメリカの弁護士だった。私が彼にニューヨークで会ったのは1981年4月だった。憲法起草から35年、彼は75歳だったが、往時をよく記憶していて、すべての質問に細かに答えてくれた。
私は当時、帰属していた毎日新聞社を休職して、アメリカの研究機関「カーネギー国際平和財団」の上級研究員という立場だった。日米安全保障関係を研究しており、その一環としてケーディス氏に取材したのだった。それからまた35年が過ぎたが、同氏との一問一答の英語の記録はいまもすべて持っている。
憲法起草時に米軍のGHQ(総司令部)の民政局次長だったケーディス氏は、最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥と、民政局長のコートニー・ホイットニー将軍の直接の指揮下にあった。
日本国憲法については、アメリカ本国政府やGHQの大まかな指令こそあったが、具体的な内容は実務責任者のケーディス氏の裁量に驚くほど多く任されていた。憲法草案の核心となる第九条はとくに重要とあって、同氏自身が条文を書いたという。
ケーディス氏の回想全体で最も衝撃的だったのは、憲法九条の目的はなんだったのか、という私の質問への同氏の答えだった。
「日本を永久に非武装のままにおくことでした」
憲法九条は周知のように「戦争の放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の禁止」をうたっている。厳密には「国際紛争を解決する手段」としての戦争や武力行使の禁止だから、自衛のための戦争などは認められる、という解釈の下に戦後の日本の防衛政策は築かれてきた。
だが、ケーディス氏は、米側の意図はあくまで「日本の永久の非武装」だったと明かしたのである。しかも、同氏が最初に上司から受け取った指針には「自国の防衛のためでさえも戦争を放棄する」という記述が明記されていたのだという。まさに完全な非武装、無抵抗、降伏主義という趣旨だった。だがこの点はケーディス氏自身が非合理だと感じたという。
「すべての国は自己保存のための固有の自衛の権利を持っています。だからこの部分は草案では私の一存で、あえて削除しました。そして上司のホイットニー将軍に『一国が他国から侵略を受けて、自衛もできないというのはあまりに道理に合いません』と説明すると、削除を了承してくれました」
日本国憲法はこんな粗雑な作業を経て書かれたのだった。しかもその本来の趣旨はあくまで日本の永久の非武装なのだから、その後に日本の防衛を縛りつけても当然だった。自衛隊の違憲論が出てもおかしくないわけだ。
当時のアメリカ側は日本の軍事強国としての再登場をなによりも恐れ、どの国も持つ自衛の権利までを奪おうとしたのだ。主権国家にとっての自衛は自明の権利である。自国の利益や安全のための戦争や武力行使も、どの国家もが保有する固有の権利なのだ。
だが当時のアメリカは、日本からその基本的な権利を奪うことを最大目的として憲法を作成し、日本に押しつけたのだ。ケーディス氏の判断で「日本の自衛戦争の否定」が削除されてもなお憲法九条は、日本の防衛や軍事を全世界でも例外的に自縄自縛の状態としてきたといえる。
その結果としての日本は、こと安全保障に関しては主権の一部を縛られた半国家、あるいはハンディキャップ国家となってきたのである。ケーディス氏が淡々と、そして率直に明かした憲法起草事情は、日本へのそうした制約をいやというほど明示していた。
その後も私はアメリカ側の識者たちから「日本の憲法の国家主権制約」という見解をたびたび聞いてきた。
1992年5月、歴代政権で軍備管理の大統領顧問などを務めたポール・ニッツェ氏は「日本の憲法九条は明白に日本の自衛行動を抑えるという点で、日本の国家主権の一部を制限しています」と語った。私の質問に答えての言明だった。
2011年9月にはワシントンのシンポジウムで、日米関係研究学者のベン・セルフ氏が、日本の防衛、軍事の活動への憲法上の制約に対して「全世界の主権国家がみな保有している権利を日本だけには許してならないというのは、日本国民を先天的に危険な民族だと暗に断じて、永遠に信頼しないという偏見です」と述べた。
ケーディス氏の述懐から長い歳月を経てのアメリカ側のこうした識者たちの言葉は、いずれも日本の現行憲法が結果として、日本自身の防衛に関する主権の重要部分を国際基準からみて例外的に、そして不自然に抑えつけているという認識の発露だった。
日本の憲法のあり方はもちろん日本自身が決めるわけだが、アメリカ側のこうした認識も、その決定プロセスでは有力な指針となるだろう。
2016年3月21日号 週刊「世界と日本」第2073号 より
<私の憲法論 第七回>
憲法に「家族条項」の創設を
最大の問題は、日本人の思考だ
政治ジャーナリスト 細川 珠生 氏
日本の憲法の問題点は、挙げればきりがないくらいたくさんあるが、私が現憲法を維持することによる最大の問題と考えるのは、憲法に関心がなくても、日々生きていくことができると思っている日本人の思考である。
《ほそかわ・たまお》 平成3年、聖心女子大学卒。平成7年、『娘のいいぶん〜がんこ親父にうまく育てられる法』で、日本文芸大賞女流文学新人賞受賞。平成7年より「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本、毎土7時5分)に出演中。千葉工業大学理事。星槎大学非常勤講師(現代政治論)。文部科学省、警察庁、国交省等で有識者会議等委員を務める。元品川区教育委員長。
いろいろな分野の現場を取材していると、報道から知りうることの大部分は“幻想”だと思うことが多い。実態は、あまりにも違うということだ。あるいは、多くの事象はもっと複雑な要素が絡み合っており、物事を多面的にとらえる思考力や想像力がなければ、事実を正しく理解することはできないということを思い知らされる。
憲法に当てはめて言うのならば、「平和憲法」というスローガンを掲げてさえいれば、日本は未来永劫、どんな世界の危機にも巻き込まれないという“幻想”は、あまりにも単純な思考と思わざるを得ない。しかし、それがなかなか多くの国民には、実感できないことでもあるのだ。
安倍総理はこのところ、憲法改正についても、堂々と発言する機会が増えた。「憲法については国民的な論議を起こして欲しい」と国会で答弁することは、今までの政治では考えられなかったことでもある。
大臣の「憲法順守義務」を盾に、それまで積極的に憲法改正について発言していた政治家でも、大臣になった途端、持論を引っ込めることが、いわば“普通”であった。それを思うと、政治も、社会も変わりつつあることを実感する。
一方で、国民の政治への関心事では、経済や年金、介護、子育てなど、近視眼的なテーマが常に上位にあり、憲法など国の根幹にかかわることについては、ほとんど関心がない。
そこで、いかに憲法が近視眼的なテーマになるかということが重要であるのだが、そのためには、今の日本で起こる数々の事件や事象、日本を取り巻く国際社会での出来事が、現憲法にその原因の一端があるということと結びつけて考えるのが重要ではないだろうか。
頻発する児童虐待についても、私は憲法の行き過ぎた個人主義にその原因の一端があると考えている。心中を含め、児童虐待による子供の死は年間約100人。そのうち0歳児が4割、さらにそのうちの9割は生後1か月以内である。児童相談所への相談件数は、統計を取り始めてから約20年で67倍の7万件以上となった。
これだけ増加した背景には様々な要因があるが、虐待の7割は若年期や望まない妊娠によるケースが占めている。離婚後の母子家庭による精神的・物理的不安定からくる母親によるもの、同居や交際相手によるものなどがその実態である。恋愛や結婚、妊娠についての価値観の多様化といえば聞こえはいいが、つまりは親の身勝手な行動ゆえに起こっていることと言える。
私も一児の母として、仕事をしながらの出産・育児の大変さは、人並みには経験してきたつもりである。しかし、家族や周囲の温かさの中で多くの精神的・物理的助けを得ることができたし、また、それ以前に、親として、我が子を大切にしていくのは当然のことであると考えてきた。
夫婦は、いついかなる時も、子供のために家族のために、努力してその関係を維持する責任を負っているという強い覚悟も、家庭を崩壊させずにこられた理由であったとも思う。それだけ結婚や出産は、大きな責任を伴うものであり、仮に不意のことであったとしても、覚悟を持って受け止めなければいけないのである。
しかし、現憲法は、第24条で結婚については「相互の努力により維持されなければならない」とはしながらも、「両性の合意にのみ基づく」、つまり当人同士さえよければよいという「自由」を強調しすぎている。このような点に、終戦直後に、それまでの価値観の転換を促す意志が読み取れるが、70年経ってしまうと、それが浸透しすぎて弊害も出てきているというのが、実態ではないのだろうか。
あるいは、学校教育を考えてみると、外国語や情報、道徳やキャリア教育など、教育内容は増える一方で、学校の負担は相当なものである。先生に求められる能力も多岐にわたり、教員の質的向上は喫緊の課題でもある。
しかし、現状は、そもそも有能な人材が教育現場に集まらないという深刻な問題がある。
その背景にあるのが、過剰な保護者によるクレーム、いわゆるモンスターペアレントの増加である。保護者対応に骨を折り、精神疾患も増加が止まらない。虐待とは相反する親の態度ではあるが、「我が子(だけの)可愛さ」が行き過ぎ、学校教育が疲弊、質も低下するのである。
それも行き過ぎた個人主義、我が子しか見えない個人主義に起因する社会の質的低下と言っていいだろう。教育力が下がれば、国力も下がるのである。
それらを考えると、親の責任は極めて重要であり、もっと意識をしながら、家庭や親のあり方を健全なものにしていかなければならないのである。憲法改正の箇所は多々ある中で、あえて1つを挙げるとすれば、「家族条項」の創設を主張したい。
そこでは、親の、子の養育に対する責任と健全な家族を維持する努力を今より強く謳うべきと考える。しかしそれは決して、戦前の家族制度を復活させるものではなく、社会の中ではいかなる立場や境遇であっても、それぞれが健全な社会を形成する責任を負っていることの1つであることとして表現すべきであろう。
とかく、目の前のことにしか興味を持たない女性の特性に照らし合わせても、憲法と我が子の境遇とを結び付けて考えられれば、自ずと憲法に関心を持たざるを得なくなるはずだ。国民的論議には、そのような“素材提供”が必要と考える。