Coffee Break<週刊「世界と日本」2189号より>
お勤めお迎えの死生観は何処へ
呼び覚まされる死の観念
オイスカ会長 渡辺 利夫 氏
《わたなべ・としお》
1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て、オイスカ会長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『決定版・脱亜論』『放哉と山頭火 死を生きる』など多数。
つい先だってまで、死は日常的な出来事だった
私どもが子供の頃、多くの人々にとって死はきわめて日常的なものだった。大抵の身内のお年寄りは自宅で死んでいった。若い者でも結核などで死んでいく者が少なくなかった。今では信じられないことだろうが、蛔虫のような寄生虫で死んでいった級友のことが思い出される。
死者が出ればその家の隣近所の人々が集まって葬式をあげ、菩提寺へと棺桶を担いでいって土葬をするというのが普通だった。私もそういう光景のいくつかを思い起こすことができる。
いつの頃からであろうか、自宅で死亡する人間は稀れとなり、現在では8割前後の人々が病院で亡くなっている。葬儀などは、大抵が○○葬儀社と名付けられる専門業者が取り仕切る。超高齢化時代の次にやってくるのはまぎれもなく超高齢者の大量死の時代である。それを見越してのことなのであろう。無数の大小の葬儀社のサイトがパソコンに掲載されている。
いつの時代にあっても、死は穢れであり、縁起でもないものだと考えられてきたのであろう。しかし、そうはいっても、死があまりに日常的な現象であるからには、死を遠ざけ死から目を背けているわけにはいかない。つい先だってまで、人間が老い病み死んでいくというライフサイクルは、私どもに確かな認識を否応なく迫るものだった。死と向き合わねば日常そのものが成り立たなかったのである。
そんなことあり得ないと少し考えればわかるはずなのに、人間、浅薄なものである。死を忌避し、これを遠くに追いやらんと必死である。
かつては「老人病」といわれてきた高血圧、脳卒中、心臓病、癌などのいわゆる慢性疾患は「成人病」といわれるようになり、ついには生活を正せば病に罹患しないですむかのような「生活習慣病」と称されるに至り、この呼び方が定着してしまった。こういうのを「自己欺瞞」と言うのであろう。この自己欺瞞は増殖を続け、際限のないものへと変化しつつある。こんなにまで死というものがはるけくも遠い存在へと追いやってしまった時代はかつてなかったのではないか。
アンチエイジングという自己欺瞞
「人生100年時代」などと、ほとんどの人間にとってはあり得ないようなことを、なんと厚労省が口にするまでに至った。まともな人間であれば、そんなバカなとは思うものの、政府までがそのように言うのだから、まるで嘘だというわけでもあるまいと、つい思ってしまいかねない。
なんだか権威ありそうな先生方を集めて「人生100年時代構想会議」なるものを組成、「人生100年時代を見据えた経済社会システムを創り上げるための政策のグランドデザイン」を検討中だと厚労省のウェブに掲載されているではないか。
アンチエイジングという医療分野までがある。いくつかの医療機関のウェブサイトを開いてみると、多くの総合病院で「抗加齢ドック」なるものを導入していることがわかる。日本抗加齢医学会という団体がその導入を全面的に支援しているとも書かれている。そこでは抗加齢医学を次のようなものとして定義している。
「抗加齢医学(アンチエイジング医学)とは、加齢という生物学的プロセスに介入を行い、加齢に伴う動脈硬化や、癌のような加齢関連疾患の発症確率を下げ、健康寿命をめざす医学である」
へえ、そんな医療分野があるのか。これだけの超高齢社会になっても「加齢関連疾患の発症確率」をさらに引き下げることが可能なのか。こんな医療分野があって、その医師の学会まで存在するというのだから、それだけ日本人の長命願望が強いことの表れなのか。少々呆れながらウェブサイトを眺めている。
このサイトには抗加齢ドックを推奨する解説がある。そこにはこう書かれている。要するに、従来の人間ドックの健診項目だけでは不十分で、それに加えて血管、ホルモンレベル、感覚器の老化度チェック、活性酸素と抗酸化バランスチェックなども行うという。そうして、「老化という兆候や症状についても、検査により早期発見、早期治療、生活指導を行うことによって、加齢、老化の予防を実現することが可能」になるというのである。「老化の兆候といった弱点をみつけて、早い時期から徹底的に対処する事が重要です」とまで言っている。
人生の背理についての想像力
秦の始皇帝が、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申した配下の徐福に、蓬莱の国にいって仙薬を持ってくるよう命じたという、有名な『史記』の記述を思い起こさせるような話ではないか。その時代とは似ても似つかぬほどに医療技術の高度に発展した現代にあって、その行き着いた先が、彼の時代とさして変わらないというのでは、なんとも情けない。思想の貧困を絵に描くかのごとくである。
こういった抗加齢医学の方針を、厚労省が医療保険機関に義務づけ、これを「相談型指導」から「介入型指導」への転換だと自負しているらしい。
健康や長寿は、これをいくら追い求めてもきりというものはない。
私どもが「生老病死」というライフサイクルの中で生きざるを得ない以上、健康や長寿を追求すればするほど逆に健康の観念に呪縛されて、授けられた生をまっとうできなくなるのではないか。健康というものは、これを追求すれば追求するほど、「死の観念」が人間を捉えてしまう。人生の「背理」である。
生活習慣病とかメタボリックシンドロームといった用語法の中に、日本人が追い求めて創り出された現在の医学・医療界の危うい観念が透けてみえる。人生は「お勤め」、死は「お迎え」という日本人の伝統的な死生観から私どもははるか遠くにまで来てしまった。現代人はみずから好んで不幸の罠にはまり、そこから容易に出てはこられなくなっているのではないか。