Coffee Break<週刊「世界と日本」2189号より>
田中角栄から松本清張まで
雑誌編集62年「忘れ得ぬ人々」
株式会社テーミス 代表取締役社長 伊藤 寿男 氏
《いとう・としお》
昭和9年(1934)、静岡県生まれ。早稲田大学卒業後、講談社に入社。
『月刊現代』『週刊現代』『FRIDAY』編集長を経て取締役に。この間、日本雑誌協会編集委員会副委員長、取材委員長、雑誌記者会幹事長を務める。退社後、(株)テーミスを設立し、1992年に『月刊テーミス』を創刊。現在に至る。著書に『新マスコミとつき合う法』など。
週(月)刊誌で政治家を取り上げたとき、読者の反響が1番あったのは田中角栄氏で、次が中曽根康弘氏だった。福田赳夫氏や大平正芳氏は官僚出身で手堅かったが読者受けはしなかった。田中氏はロッキード事件の被告になってからも人気は衰えなかった。
北海道炭鉱を率いた萩原吉太郎氏の自伝出版を祝う会だった。氏の母校である慶應義塾塾長が立ったが殆どの人が聞いていない。次が当時の首相だった福田氏で、やや耳を傾ける人が出てきた。3番手が田中氏だったが、それまでざわついていた参会者が壇の下まで押しかけ、会場は静まり返った。
田中氏の、慶應に入学した孫のエピソードなどを交えたスピーチに聞き惚れた人々は大拍手、退場する氏に握手を求める行列が出来た。ロッキード事件などどこ吹く風だった。
郷里へ帰る田中氏を追った取材のときだった。早朝6時に田中邸へ行くと、浴衣の氏を地元の約50人が取り囲んでいた。そんな彼らに、氏は「〇〇ッ、あの角っこのお前の200平米(へいべい)の土地な、あそこはいま売っちゃならんぞ。もうちょっと待て」など、一人ひとりに土地の売買や家庭のもめ事に指示を出してゆくのだった。
地元の人たちの名前と顔、さらに所有している土地から家庭の事情まで精通し記憶していることに驚嘆した。かつて通産省OBに聞いたことだが、氏が通産相時代、その年に入省したキャリア20名が整列したとき、次々に名前を呼んで握手したという。彼らがたちまち氏に心酔したということがよくわかる。
私が編集局長時代、『週刊現代』の記事で秘書から猛抗議を受け、午前7時に編集長を連れて田中邸に行った。浴衣の氏は、私たちの顔を見て「今日は何だ?!」と声を掛けただけで、いくつかの部屋で待機している陳情客をはしごしていた。
秘書との対決を終え玄関に向かうと、なんと田中氏も見送りに来たのだ。そこで「伊藤さん、あんたは何区だ?」という。私が「静岡1区です」と答えると、「あそこは5人区だが自民党3人で一杯だ。しかし君が出たいというなら1人降ろすからいつでもいって来なよ」というのである。
政治家志望の新聞記者らにも同じことをいっているに違いない。彼らにとっては田中氏の権力と金力をバックにした言葉が力強かったことと思う。田中派の議員も同じだろう。
最近、芥川賞や直木賞が毎回のように話題になるが、ほんのスタートだというのにマスコミが騒ぎ過ぎる。ちょっと売れて、出版社や銀座のクラブなどで「先生」と持ち上げられ威張っているうちに忘れられる人も多い。
松本清張氏や司馬遼太郎氏は編集者などを大事にし威張ったりしなかった。
松本氏は年末になると、講談社社長と文芸誌担当、総合誌担当の私の3人を料亭に呼んでくれた。「来年もよろしく」といって乾杯の盃(さかづき)に口をつけるが、酒はそれだけである。銀座のクラブに流れてもコーヒーだけ、砂糖も入れずに飲みながら、他の席の酔客を凝視しているのだった。酒が好きな作家が晩年、小説が書けなくなって人生論や対談に逃げているのを軽蔑していた。
司馬遼太郎氏のお酒は楽しかった。何回かご一緒したが、京都でも大阪でも数人しか入らない小さな居酒屋だった。小学校の同級生だった女性がやっていた居酒屋では盛り上がった2人が校歌を歌ったこともあった。
城山三郎氏との歴史対談では、気負った城山氏が最初の1時間はよく喋ったが息切れしてきた。後半は司馬氏の独壇場だった。それでも恰好つけて速記をまとめたゲラを送ったところ、「よく整理してあり、感心しました」という手紙がついて返送されてきた。嬉しくなった。かねて司馬氏は“編集者誑(たら)し”といわれていたが、これだと思った。
司馬氏との面会日は月に2~3日と決まっており、約2時間置きに編集者などに会うのだった。理由を聞くと「会うとついサービスして喋り過ぎ疲れて書くのが嫌になる。それで面会日を設けたのだ」と明かしてくれた。
午後2時に伺うと、「コーヒーを飲みに行こう」と誘ってくれて歩きながら話したが、奥さんは約10メートル後から来たうえ、喫茶店でも仕事の話が終わるまで離れた席にいた。司馬夫人とは反対に夫の作品やスケジュールを管理する妻もいた。
笹沢左保氏の原稿を受け取りに教えられたマンションに行くと、NHKのドラマなどに出演していた愛人の若い女優が出てきた。「あと5枚ぐらいだから」と2人の炬燵(こたつ)に入れられた。笹沢氏が書き終えた原稿を渡すと、彼女が「左保ちゃん、ここはこんな風に直したほうがいいと思うよ」というと、笹沢氏が「そうだね」と応じるのだった。
私は信頼されているとは思ったものの、笹沢氏に「こんなところは他の編集者には見せないほうがいいと思います」といった。
井上ひさし氏も離婚した夫人にスケジュールを全て任せていた。いろいろあった夫人だが、彼女と別れてからの井上氏の遅筆はさらに進んだように思われた。
石坂洋次郎氏夫人は最も印象が強かった。氏が戦前、秋田県下の旧制中学で教師をしていたとき、夫人は共産党のオルグと親しくなり彼の赴任先まで追いかけたこともあった。数週間後に氏の許に戻ったとき「避妊具をつけていたから肉と肉との交わりではない」と語ったという。
石坂氏の戦後の作品には、仕事も家庭も大事にする夫に不満を抱いた妻が他の男によろめきかけるが瀬戸際で思いとどまり夫の許に帰ってくるテーマが多い。私はそれは石坂氏の夫人への“復讐”ではないかと思った。
しかし、夫人が亡くなった後の氏は、夫人を巡るエッセイを書いただけで、もう小説は書けなくなってしまった。奔放だった夫人が、ソクラテスにおける「妻」だったのだろうか。