Coffee Break<週刊「世界と日本」2237号より>
世界における日本文化
-改めて人類の歴史に果たす使命を考える-

元文化庁長官 国際ファッション専門職大学学長
(一社)人文知応援フォーラム共同代表
近藤 誠一氏
《こんどう せいいち》 1972年外務省入省。広報文化交流部長を経て、2006年からユネスコ日本政府代表部特命全権大使。08年よりデンマーク大使。10年より13年まで文化庁長官を務め、三保松原を含めた富士山の世界文化遺産の登録を実現。現在、近藤文化・外交研究所代表、東京都交響楽団理事長、TAKUMI-Art du Japon代表理事などをつとめ、19年4月国際ファッション専門職大学学長に就任。
専門知を束ねる横糸
2023年はどのような年になるであろうか。気候変動、新型コロナ感染症、そしてウクライナに代表される国際秩序の綻びという、今の人類が直面する三つの問題について、その場しのぎの対策に留まらず、根本的解決に向けてどこまで前進が図れるだろうか。残念ながら楽観的にはなれない。
何故ならこれらはいずれも複雑で相互に絡みあった大きな問題群の一部(大氷山の一角)に過ぎず、単独で解決できるものではないからだ。この問題群とは、生態系の摂理と人類の文明との関係や、民族・感情・宗教などの人間性の複雑さが複雑に絡むもので、いかなる分野の専門知も単独では扱い得ない。すべての専門知を動員し、それらを横糸で繋げなければ「解決策」を編むことはできない。しかしそれは一人の人間の能力を超える。
できることはマイケル・ポラニーが言うように、個々の専門家が、重なり合う隣接領域との間断なき対話を通して他のすべてのひとと連鎖的に繋がることだ。断片的な問題の解決を目指す個々人の努力を重層的に重ねるしかない(村上陽一郎編『「専門家」とは誰か』)。
横糸をどう編み込むか
この問題群の一端を、関連する専門知と、それらを有意に繋げる横糸としての人文知すなわち「人間とは何か」に関する先人達の知恵とを組み合わせつつ一つの私論を試みたい。
まず自然科学が明らかにしたことは、自然の生態系は、物質循環、食物連鎖、動的平衡(注)など複雑なシステムによって38億年にもわたって生命を繋いできたこと、そしてその摂理に従う種のみが生き残ってきたことだ。
だがそこで生まれた人類は、文明を急速に進歩させてその摂理に反する行動をとり、生態系の維持を脅かしつつある。人口爆発、森林破壊、資源の大量消費が、気候変動や感染症、多くの野生動物の絶滅を誘発している。古代以来の識者による警告にも拘わらず、何故こうした道を歩むことになったのか。ヒントは三つある。
第一は技術の進歩が欲望の果てしなき追求を可能にしたことである。生態系の摂理の下では、人口が増え過ぎた種は食物連鎖を乱すゆえに淘汰されるはずである。しかし技術の急速な進歩は、人類がこの制約を乗り越えることを可能にした。農業牧畜革命や医学を含む科学技術革命などによる食料増産、健康増進である。そのお陰で人類は理性による抑止力を超えて、あくなき欲望追求に走ることとなった。それは文明をここまで発達させる原動力となったが、いまその副作用が制御不能になりつつある。
第二が、近代文明を牽引(けんいん)して来た西洋が抱くに至った、自然を資源と見る思想である。自然と人間は中世のキリスト教の影響によって別のものと認識され、自然は「内から直観される」同質者でなく、実験操作によって「外から」理解される客体として認識されるようになった。それがデカルトの主客二元論によって西洋の思想の根幹に発展した(伊東俊太郎『近代科学の源流』)。
西洋が自分を自然の一部と捉え、生態系の摂理を守るために欲望を制御することを困難にする三つ目の要素が「自由」の信奉である。社会の運営には個人の自由と全体の秩序のバランスを計るための「自己統制」が必要だ(猪木武徳『自由と秩序』)。しかし専制君主や教会からの解放によって近代社会をつくったとの自負をもつ西洋人にとって、自由は生態系が要求する秩序(食物連鎖のルール)より優先される。
どうすれば人類は、自然との調和を阻害するこれら三つの壁(欲望重視、自然の客体化、秩序より自由の優先)を乗り越えることができるのか。
日本文化の自然との親和性
ここで注目されるのが日本の伝統的思想である。自分を全体(自然)の一部を成すものと捉え、自己抑制することで摂理を守り、秩序を維持することを尊ぶ。それは自然との融和や社会の安定のために適切なOSとして機能している。
しかしこの思想を言葉にすると、ヘーゲルなどの言う「アジアの停滞」というアジア批判を想起させ、西洋人を納得させることは至難の技である。とりわけアジアの専制大国があからさまに自由より秩序を重んじる行動をとる現在、それは一層難しい。そしてそもそも彼らに非西洋に耳を傾ける用意がないことは、「いつになったら西洋は東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう」という岡倉天心の言葉からも明らかである(『茶の本』)。
しかしこれは有限の地球で暮らす以上、受け入れざるを得ない自由の制限と考えるべきである。その考えを広めることは、われわれの権利であるだけでなく、義務ですらある。それを果たす上で最上の方法は、まず日本の気候風土や文化、習慣を体験させ、その上で簡潔な解説を提供することである。生活に染み付いた人生訓である「足るを知る」、「お互いさま」、「三方良し」、「金は天下の回りもの」などは、生態系の摂理である物質循環や食物連鎖に通じ、自然との親和性が極めて高い。『方丈記』の有名な冒頭の一文は、動的平衡論を体現した名文である。
こうした日本人の自然観を評価する西洋の知識人は少なくないが、彼らはいずれも日本に滞在してその価値を感じ取った(『アインシュタイン日本で相対論を語る』、レヴィ=ストロース『月の裏側』)。
日本が明治以降西洋化を進めながらこうした自然観を和食や年中行事などによって語り伝えていることも説得の材料となる。こうした体験を外国人の間に広げることで、いま世界に広がっている西洋的理念体系を無意識のうちに内側から変革していく日が来ることを期待したい。
それは政府の政策だけでは達成できない。冒頭述べた専門知の生かし方と同様、日本人一人一人がこの日本的感性を、隣接領域(異文化)との対話を重ねながら世界に感じさせる努力を続けていくことが効果的である。
「いのち」を主題とする2025年の大阪万博は一つのチャンスかも知れない。
(注)動的平衡:生命体とは固定した実体ではなく、その様々なパーツのダイナミックな流れの中に成り立っているという議論(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』)。