Coffee Break<週刊「世界と日本」2242号より>
古典から学ぶ—社会人の心得
シリウス・インスティテュート
代表取締役
舩橋 晴雄氏
《ふなばし はるお》 1946年東京生まれ。東大卒。大蔵省入省。副財務官、東京税関長、国税庁次長、国土交通審議官、一橋大学客員教授を歴任。著書に『日本経済の故郷を歩く』『新日本永代蔵』『反「近代」の思想—荻生狙徠と現代』など多数。一貫して和漢の古典を現代に活かす活動を展開している。
四月は出会いの月である。入学式、入社式など、人々は新しい環境に、期待や不安を抱いて入っていく。既に社会人になった人々でも、会社の定期異動などで所属が変わり、心機一転を図ろうという人もいるだろう。そのいずれにも、必ず新しい出会いがある。会社であれば、上司、同僚、部下、あるいはお得意先など様々な出会いである。
出会いの中で特に思いのこもったものを出逢いと書く。男と女の運命的な出逢いといった表現である。筆者は、別に男女間でなくても、数多い出会いをいくつかは出逢いにすることが大切なのではないかと考えている。
また出会いは人と人とが直接会って会話したりするばかりでない。書物や映像、音楽などを通じて人と人とが触れ合うことも一つの出会いである。書物でいえば、書物を通じて古(いにし)えの聖賢と出会うこともできる訳だ。
江戸の大需(たいじゅ)伊藤仁斎と『論語』の出会いも、まさに出逢いそのものであった。仁斎は『論語』に心酔し、「宇宙第一の書」とまでいっている。どこが偉大かというと、『論語』で孔子は平易な語り口の中に卑近な例を挙げて人生の真実を気づかせる数々の箴言(しんげん)を遺しているからである。
今回編集部から「古典から学ぶ—社会人の心得」について寄稿するよう要請があった。仁斎には及びもつかないが、筆者なりに『論語』との出逢いによって学んだことを中心に述べてみたいと思う。
第一の心得は、人は人の中で生きるという自覚である。どんな人間として生きるのか。孔子は「老者はこれを安んじ、朋友(ほうゆう)はこれを信じ、少者はこれを懐(なつ)けん」といっている。老人には安心されるように、友人には信じられるように、若者には慕われるような人間になりたいということである。逆にいえば、弱い者イジメをする者、約束を弊履(へいり)の如く捨て去って恥じることのない者、後進を競争相手のようにみなしてその成長を喜ばないような者、そのような者になってはならないということだ。そのために何が必要なのか。ひと言だけで一生行うべきことは何かと問われて孔子は、「其れ恕(じょ)か。己れの欲せざる所、人に施すこと勿(な)かれ」と答えている。
恕とは思いやりである。これは倫理のゴールデンルールとも称され、多くの宗教倫理でも等しく強調されている。人が人の中で生きるに当って、最も大切な生き方であろう。
第二の心得は、学び続けるということである。最近よくリスキリングなどということが強調されており、それを否定するものではないが、より大切なことは生涯学び続けることで、人間としてより高みを目指すという姿勢であろう。『論語』では、「学べば祿其(ろくそ)の中に在り」(学んでいると俸祿は自然と伴ってくる)とあって、単なるスキルも含まれるように見えるが、その前後には「君子は道を謀(はか)りて食を謀らず」とあって、その優先順位が「道」即ち人としてのあるべき姿にあることは明らかである。
学びは書物からもあり、人からもある。書物については、「博く文を学びて、これを約するに礼を以てす」という章句がある。ひろく文を学ぶとは、様々な分野にアンテナを張って興味を覚えたものを学ぶということで、これに礼がセットになっているのは、いわゆる書物馬鹿に陥らないという注意である。また人に学ぶ点についていえば、孔子は「我れ三人行えば必ず我が師を得る」として、その中の善き人を選んでそれに見習うと述べている。
この謙虚さもそうだが、『論語』の良さは、孔子を聖人視するのでなく、その喜びや悲しみ、怒りや楽しみを憚(はばか)らない等身大の人物と描いている所にある。
学びでもう一点大切なことは、学んだものを身につけるということで、単なる知識ではなく実践に役立つまで学ぶことである。これを体得とか習得とかいっているが、『論語』冒頭の「学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや」がまさにその事である。学習とは学と習による熟語で、学びが繰り返されてはじめて身につく(習)ことになるのである。
第三の心得は、自分を知るということである。人の個性は様々である。能力、性格、教育など、一人として同じ人はいない。そのような多彩多様な人が組織を作り、力を合わせて目的を達成する。この中でどのように個性が発揮できるのか。あるいは使う立場に立てば、どのように発揮させるのか。
「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」この順序なのである。楽しんで仕事ができれば良いものが生まれる。良いものが生まれれば一層楽しくなる。従って人は自分の置かれた環境の下で、何をしていたら楽しいのかを見つけなくてはならない。また、置かれた環境下で見つけられないと思ったら、環境を変えることも考えなくてはならない。しかし、それは簡単なことではない。第一に、職場や会社を変えることに伴うリスクがある。
また、自分の考える自分の個性が、これまでの思い込みであったり、周囲の評価の反映であったり、バイアスがかかっていることがある。さらに、人は歳とともに変化するものである。そして「苗にして秀でざる者あり、秀でて実らざる者あり」で、実を結ぶまで長い時間がかかる。このように楽しんで仕事ができるを達成するには数多くの困難があるが、一度しかない人生である。自分の個性をどう生かすかを絶えず考えておく必要があるだろう。
最後の心得は、出会いを大切にし、いくつかの出逢いを作ることである。出会いとは偶然とか運による所が大きいものだが、だからといって諦めるのでなく、時に巡ってくるチャンスを捉えるため、日頃から感度を磨いておくという積極性が大切である。『論語』には、「博奕(はくえき)なる者あらずや。これを為すは猶(な)お已(や)むに賢(まさ)れり」とある。博奕のようなものでも何もしないより良いというのだ。無為、消極を否定しているのである。