Coffee Break<週刊「世界と日本」2249号より>
爽風エッセイ
人々を引き付ける大相撲の魅力

相撲ジャーナリスト
荒井 太郎氏
コロナ禍を経て観客数の上限や声出し応援の規制は完全撤廃され、大相撲もようやく本来の姿を取り戻しつつある。東京・両国国技館で行われた先の夏場所は、4場所連続休場明けの横綱照ノ富士の復活優勝、霧馬山改め霧島の大関昇進、史上初の4関脇が2桁勝ち星達成など、話題が豊富であったこともあり、全15日間満員御礼という大盛況に終わった。なかでも約1万1000人収容の館内で特に目立っていたのは、アフターコロナを象徴するかのような外国人観光客の多さだった。
相撲は相手を土俵の外に出すか、足の裏以外の体の一部を先に土につかせたら勝ちという単純明快なルールのため、予備知識が全くない人が初めて相撲を見ても勝負が分かりやすいことが洋の東西を問わず、人気の要因の一つなのであろう。
また、実際に国技館に行けば気づくことだが、他のプロスポーツとは違って大相撲観戦における競技の要素は意外にもそれほど大きくはない。関取衆が頭に大銀杏を結い、豪華絢爛の化粧まわしを締めて行う土俵入りは、いわば顔見世であり、競技とは直接関係ない。また、美声を轟かせる呼出しや、煌びやかな装束を身に纏う行司、土俵上の進行の折々に打たれる清らかな柝(ひょうしぎ)の音といった伝統文化を形成する一つひとつの存在も、大相撲の間口の広さと奥深さを担っており、老若男女誰をも魅了している。
もともと相撲は五穀豊穣を願う神事がはじまりと言われ、やがて江戸時代後期に興行として発展し、明治維新期には過去の遺物として存亡の危機にあったが、“お上”にうまく取り入りつつ、曖昧な勝敗を減らすなど近代スポーツの要素も巧みに取り入れながら、今日まで存続してきた。
大相撲にも他のスポーツ同様、「番付」というランキングが存在し、その頂点には「横綱」が君臨するが、“チャンピオン”とは明らかに一線を画し、様々な付加価値も伴う。ボクシングのチャンピオンなら一度、王座から陥落しても再び返り咲くことは可能だが、横綱は不成績が続けば引退しかない。江戸時代から数えてたった73人しかいない横綱は、常に勝ち続けなければならないという宿命を背負ってきた。それはもう神の領域であり、近代スポーツに鑑みれば、極めて不条理な制度なのかもしれないが、横綱の権威が21世紀の今もなお、失墜することなく保たれているのは、先人たちが考案した伝統文化や神話に裏打ちされたストーリーを幾重にも身に纏っているからであろう。大きな注連縄を腰に巻いて行う横綱土俵入りは、興行の一番の華でありながら厳粛なムードも漂い、他のスポーツのチャンピオンが足元にも及ばないほどの威厳を見事なまでに演出してはいないだろうか。
本場所初日の前日には土俵祭りが行われ、相撲の神様を土俵に降臨させ、15日間の安心安全を祈願し、千秋楽の神送りの儀で再び天にお帰りいただくが、こうした神にまつわる“演出装置”も横綱同様、大相撲ならではの神秘的な魅力を醸し出している。
神事、興行、スポーツの3要素が絶妙なバランスを保ちながら成り立っている日本の大相撲は、世界でも唯一無二の存在であり、世界中のどんなスポーツ、エンターテインメントとも十分に太刀打ちできる強力なコンテンツと言えるだろう。その可能性はまだまだ無限である。