Coffee Break<週刊「世界と日本」2275号より>
爽風エッセイ
敗戦後の食糧難と甘い思い出
平和・安全保障研究所副会長
西原 正氏
我々夫婦には娘が2人いる。45年近い昔、彼女たちが小学校に入ったころ、食事の終わりに食べ残そうとすると、我々両親は与えられた自分の皿のものは残さず食べるようにとしつけた。テーブル・マナーとしても大切であるが、好き嫌いを言わない健康な子供になってほしいとの期待があった。そしてまた貧しくて十分に食べ物にありつけない人たちのことも考えるようにということもよく話した。こうした家庭環境を作ることができたのは、私が第二次世界大戦の終わりと戦後の食糧難から食事の大切さをしみじみ自覚したからであった。
私の両親は5人の子供を育てた。一家は、1941年(昭和16年)に父の仕事の関係で大阪府の岸和田市から石川県金沢市の東北部にある天徳院という大きな寺の近くにあった狭い住宅街の一つを借りて住み始めた。勤務先が近くて便利だというので、父はそこを選んだのだが、その住宅街に住んでいた人たちのほとんどは郊外の田舎の人たちと親戚関係にあり、食料品などは不自由なく入手できる人たちであった。私たちの父は大阪府出身、母は東京都出身で両方とも都会出身であり、しかも金沢市には全くの縁がなかったので、戦争が厳しくなり、町の商店の食料品が乏しくなっても、近所の人たちのように田舎とのつながりで食料品の調達をするのは不可能であった。
そうしたこともあって、1943年(昭和18年)頃から、次第に5人兄弟姉妹のうち一番下の幼い妹以外の4人は、交代で近くの郊外に行き、食べられそうな雑草を学んで摘んだり、山に栗を拾いに行ったり、双子の弟と私は川で魚を捕ったりして、食卓の一部とするようになった。近所の子供たちからは、「西原のところの食事は、メシではなくて野草か、せめて芋3つだな」と冷やかされていた。
私と弟は1944年(昭和19年)石引町国民学校(後に石引町小学校)に入学し、他の生徒と同じく弁当を持参した。しかし食糧事情の乏しい時で、私たちの弁当は内容が貧弱であり、昼食時に弁当の蓋を開けるのが恥ずかしかった。当時は自分の弁当を食べてもまだ空腹を感じ、しばらくすると「ひもじい」という言葉がぴったりする空腹を感じた。
当時は通信簿に生徒の身長、体重が記録されたが、その記録によれば、私の1学年末(1945年3月)の通信簿には、身長107・8㎝、体重17・0㎏とあり、体重が軽かったのに驚いたのを覚えている。2学年の最後には身長110・0㎝、体重18?・7㎏、3学年の最後には身長114・6㎝、体重22・4㎏とあった。3学年の通信簿には、「身長と体重の釣り合いがとれていない」という担任の教師のコメントが入っていた。
確か3学年の給食に、栄養の補給ため教室の生徒全員に進駐軍の采配で缶詰のほうれん草がスープになって配られた。ほうれん草を食べて元気いっぱいになるポパイの映画も見させられたのを覚えている。しかしスープは味が悪く美味しくなかった。醤油がかかっていればもっと美味しかったはずだと思った。その後は食糧事情が改善され、ほうれん草のスープを口にしたのは秋の1学期だけであった。
こうした奇妙な経験を経た私たちが、あれから70年後、自分の子供たちに「食糧難」、「ひもじい」の話をしても理解をしてくれなかったのは、豊かな時代に育った子供たちの特権だったと言えよう。私の方は、世界の多くの貧しい子供たちが1日も早くより豊かな生活をすることができることを祈るばかりである。