サブメニュー

●週刊「世界と日本」コラム

外部各種イベント・セミナー情報

  • 皆様からの情報もお待ちしております

お役立ちリンク集

  • お役立ちサイトをご紹介します

Coffee Break

  • 政治からちょっと離れた時間をお届けできればと思いご紹介します

東京懇談会録

  • ※会員の方向けのページです

●時局への発言ほか

明治維新150年チャンネル

  • 2018年、平成30年は明治維新からちょうど150年。
  • お知らせ

    ●会員専用コンテンツの閲覧について
    法人会員及び個人会員、週刊・月刊「世界と日本」購読者の方で、パスワードをお忘れの方はその旨をメールにてご連絡ください。その際に契約内容が分かる内容を明記ください。折り返し、小社で確認後メールにてご連絡します。

    パスワードお問い合わせ先

    tokyo@naigainews.jp

2018年、平成30年はあの明治維新からちょうど150年。日本よ、新しい自我形成に目覚めよ

2019年3月6日号 週刊「世界と日本」第2144号 より

平成とは・・・

近代日本の平和が成った時代

 

大阪大学大学院 法学研究科教授 坂元 一哉 氏

 昨年2018年は、明治維新から150年の節目にあたる年だった。この間の日本の歴史を、ごく大づかみにいえば、「欧米に学び、欧米と戦い、欧米と協力」してきた歴史といえるだろう。欧米諸国の「西力東漸」に全力で対応した明治維新から1世紀半の間、日本は欧米に学んで近代産業国家を建設し、やがてアジアの秩序をめぐって欧米、とくにその2大強国である米英と戦い、敗れた後は、欧米、とくに米国と協力して自由、民主主義、法の支配といった価値に基づく、自由主義の世界秩序形成に努めてきた。

《さかもと・かずや》 1956年福岡県生まれ。京都大学法学部卒業。京都大学大学院法学研究科博士前期課程修了。米国オハイオ大学留学。京都大学助手、三重大学助教授などを経て97年より現職。京都大学博士(法学)。著書は『日米同盟の絆』(有斐閣、サントリー学芸賞受賞)『日米同盟の難問』(PHP研究所)など多数。

 現在の日本は、その自由主義の世界秩序を支える主要国の1つになっているが、今後もより一層、その秩序の維持発展に協力し、貢献していくべきだろう。それは日本の安全と繁栄、また世界政治における日本の地位、どちらにとっても、必要かつ望ましいことである。
 明治150年を終えたばかりの日本は、今年、御代替わりとなり、30年あまり続いた平成の時代が終わる。過ぎ去っていくこの時代には、さまざまな評価があるだろう。
 ただ私は、どういう評価であれ、平成の終わりは、長く続いた日本の「戦後」の終わりになると考える。明治150年を前半と後半の2つに分ける欧米との戦い、すなわち昭和の大戦(第二次世界大戦)が日本にもたらした精神的衝撃に、一応の整理がつくだろう、という意味においてである。
 昭和の大戦における敗北と破壊が日本にもたらした物理的、また精神的な衝撃は巨大だった。前者の衝撃からは比較的短期間、昭和のうちに、立ち直ることができた。日本は復興を成し遂げたばかりか、自由世界の発展のなかで、世界を驚かす高度経済成長を実現し、世界第2位の経済大国にまでなった。もちろん、大戦を戦った国々との法的な戦後処理も、昭和のうちに、ほぼ終えることができている(北方領土問題を除いて)。
 だが後者、昭和の大戦が日本人に与えた精神的衝撃の方は、歴史認識と戦争の反省の問題に外交がからんだこともあって、昭和のうちにはうまく整理することができなかった。平成の30年間も、その整理のために必要だったと私には思える。
 京都大学で国際政治学を教えた高坂正堯(こうさかまさたか)は平成8年、亡くなる直前に書いた論文のなかで、戦後半世紀になるのに、大戦争の精神的整理ができていない。そのことが日本の外交からしっかりした言葉を失わせ、日本を国際社会において「言葉のない日本」にしている、と嘆いた。
 だがそれから20年後、日本外交は、「自由で開かれたインド・太平洋戦略」という言葉を生み出すことができた(平成28年、安倍晋三首相のナイロビでの演説)。欧米や豪州、インドなどと協力して、自由世界全体の安全と繁栄に貢献する。その姿勢を一段と明確にする言葉である。
 たんに、台頭する中国の海洋進出を牽制するだけでなく、日本と北米、南米、アジア、豪州、欧州、アフリカ、すなわち、世界をつなぐ2つの巨大な海の平和に積極的に貢献していくという、海洋国家としての大志あふれる言葉でもある。
 そういう言葉が生まれた背景には、その前年、平成27年(戦後70年)における政府の2つの努力がある。どちらも高坂が、それらを解決する努力が足らないことが、大戦の精神的整理ができていない原因になっていると批判した、戦後日本の2つの大問題に決着をつける努力だった。
 1つは「安倍談話」の発出である。大戦の反省と謝罪という大問題に、反省はこれからも続くが謝罪は繰り返さない、とすることで一応の決着をつけた。日本は戦争の反省と謝罪ができていない、とする内外の誤解をただし、その誤解が、近隣諸国との外交を混乱させることに終止符を打つ。
 そのために、戦前の日本が国際協調に失敗して大戦争に至った経緯について、非常に簡単にではあるが、政府の歴史認識を示す、という異例のことも行った。諸外国に同様の例があるとは聞いたことがない。
 もう1つは「平和安全法制」の制定。これにより、大戦の反省に基づく憲法の平和主義に反しない、自衛のための武力行使の範囲をどうするかという、これまた「戦後」の大問題に一応の決着をつけることができた。
 集団的自衛権の行使が可能かどうかが、長らくこの大問題の焦点になっていたが、それに関してこの法制は、政府の新しい憲法解釈を踏まえ、憲法が許す自衛のための必要最小限の武力行使のなかに、国際法でいえば集団的自衛権の行使にあたる武力行使も一部含まれる、と議論を整理した。
 この整理が、わが国の安全保障の基盤である日米同盟の安定と、抑止力の向上に持つ意義は大きい。日本は集団的自衛権の行使は一切できない、とするこれまでの整理には、国際法上、集団的自衛権に基づいてつくられている日米同盟の絆を傷つける不条理さがあった。
 政府の2つの努力のうち、後者には国内に厳しく批判する声があった。だがそれも朝鮮半島情勢の緊迫化や、中国の軍拡の進展などにより、おおむね収まったといえよう。
 今上陛下は昨年のお誕生日に、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」とのお言葉を述べられた。昭和の大戦の精神的整理を考える場合には、ご自身が大戦をご経験になられ、昭和天皇から引き継がれた平和への祈りと、戦没者の慰霊に、たゆまず取り組んでこられた陛下のご努力を決して忘れてはならない。
 あらためて考えてみれば、近代日本150年の歴史、すなわち、明治、大正、昭和、平成と続いた歴史のなかで、戦争がなかったのは平成だけである。そして今年、御代替わりになれば、昭和の大戦は、われわれにとって前の時代のことではなく、前の前の時代のことになる。そのことの象徴的意味も大切だろう。
 新元号とともに始まる新しい時代からみれば、平成という時代は、戦争がなかったというだけでなく、「戦後」を終わらせた、という意味で、「近代日本の平和が成った時代」と考えられるようになるのではなかろうか。


2019年1月21日号 週刊「世界と日本」第2141号 より

新春エッセイ

明治から現在~150年の旅

 

日本大学危機管理学部教授 先崎 彰容 氏

 昨年末、2000人ほどの聴衆を前に、明治時代に関する講演をしたことがあった。
 自己紹介がはじまると、どよめきが起こった。筆者が「昭和50年生まれ」と紹介されたからである。明治150年を俯瞰するのは、確かに大御所が相応しい。にもかかわらず、若手が演壇に立ったことに、一瞬、会場が沸いたわけである。
 まもなく平成が終わる。この30年間を総括するなら、むしろ若者の方が向いているだろう。同時代感覚があるからだ。ではなぜ、筆者は明治に、とりわけ西郷隆盛に関心を抱いたのか。はるか150年を見渡そうとしたのだろうか。
 2つの理由があった。第1に、わが国はいま、閉塞感あるいは過渡期を迎えている。具体的には、少子高齢化であり格差社会である。それは戦後、自明の前提としてきた価値観や判断基準が、もはや通用しなくなったということだ。
 さらに東日本大震災を直接体験したことであった。福島第一原発近くで被災した筆者は、日本が「近代化の出口」にいることを痛感した。近代化を無条件で礼賛する時代は終わった。もう一度、これまでの常識を見直し、斬新で柔軟な国づくりの発想が求められているのだ。
 だとすれば、幕末明治期ほど、魅力的な時代はない。なぜなら今日以上に国内外の価値観が瓦解(がかい)し、現状の変更を求められた過渡期だったからである。
 とりわけ筆者は「西郷隆盛」に、つよく惹かれた。西郷は、封建的でも古色蒼然とした人物でもない。徴兵制も廃藩置県も、西郷の手によって行われた。明治10年、西南戦争を引き起こした際には、洋行帰りの弟子や、ルソーの『社会契約論』を読んだ者たちが、西郷に殉じたのだった。
 だがその西郷は、近代化を急ぎすぎる大久保利通ら新政府と対立し、下野した。西郷は言う、電信や鉄道を敷き、西洋を模倣しているだけではダメである。「なぜ、日本にとって必要なのか」が問われねばならない。国家像を明確にもち、取捨選択の基準をもたねば、おびただしい西洋の価値観に翻弄されるだけなのだ。
 つまり西郷は、近代化を進めつつ、同時に疑惑をもった。「近代化の入り口」で、はやくも失われゆく日本の価値に気づいていたのだ。
 明治の魅力の2つ目は、西郷亡き後、多くの者たちが西郷を語ったことだ。福澤諭吉や中江兆民など、同時代の思想家ばかりではない。戦後も、三島由紀夫や司馬遼太郎などのビックネームが、西郷を論じることで、自身の考えを表明した。
 司馬遼太郎は、西郷に辛口だった。西郷は征韓論で、感情的に大陸進出をしようとし、西南戦争では絶対の負け戦を決断した。
 これは眼前の「55年体制」と同じではないか。なぜなら社会党は、自民党の外交政策を感情的に批判し、また政権奪取をする気もないまま、与党批判をしているからだ。西郷こそ、「55年体制」の野党の精神を、最初に象徴した人物だというのである。
 西郷と社会党が同じだとは、驚くべき指摘だろう。「西郷」に注目することは、現代に直結していている。明治から今日までの150年は、一本の道筋をたどる旅、近代日本精神史に他ならないのである。

 


2018年12月3日号 週刊「世界と日本」第2138号 より

明治維新150年

幕末の大政治家、阿部正弘を想う

「戊辰戦争150年」無念の会津藩

 

作家 山名 美和子 氏

 今年も9月末に「会津まつり」に出かけた。もう20数回目になる。大作『會津士魂』を著した作家・故早乙女貢(さおとめみつぐ)氏のお声掛けで参加したのが初めだった。祭りは総勢500名が市内を練り歩く「会津藩公行列」でクライマックスを迎える。幕末の会津藩家老・西郷頼母(たのも)役で騎馬する早乙女氏に、15名ほどの応援隊が声援を送るのだ。氏が逝かれてからは推理作家の今野敏氏が頼母役で騎馬し、応援隊は今も続いている。

《やまな・みわこ》

東京生まれ。早稲田大学文学部卒。第19回歴史文学賞入賞。著書に『真田一族と幸村の城』(KADOKAWA)、『乙女(ヒロイン)でたどる日本史』(大和書房)、『直虎の城』(時事通信社)、『日本縦断「幻の名城」を訪ねて』(集英社)など。共同執筆に『名城をゆく』(小学館)、『名将の決断』(朝日新聞出版)、『関ヶ原』(洋泉社)ほか多数。

 会津最大のこの祭りは、戊辰戦争で新政府軍の猛攻を受けながら鶴ヶ城(会津若松城)に籠城して約1カ月戦い、3000余名もの命を失って降伏した、その日を中心にくりひろげられる。降伏は元号が慶応から明治になる150年前の秋であった。
 会津では「維新150年」といわず、「戊辰戦争150年」という。「明治維新」という呼称は明治13~14年ごろ、新政府が自らの事績を称揚しようと用いはじめたものだ。
 戊辰戦争は1868年1月、鳥羽・伏見で戦いの火蓋をきる。旧幕府勢力と衝突し勝利した薩摩・長州藩を主体とする新政府軍は、朝廷から「錦の御旗」を得て、天皇の軍、つまり「官軍」を名乗り、会津藩、庄内藩など佐幕勢力を「朝敵」とみなし、「賊軍」征討を命じた。
 「朝敵」とされた会津藩の無念はいかばかりだっただろう。藩主・松平容保(かたもり)は幕府から京都守護職を命じられ、混乱する京の治安維持に全力を注いだ。孝明天皇は容保の忠誠に感じ入り、「心をあわせて世々を想っていこう」との宸翰(しんかん/自筆の文書)と、御製(ぎょせい/和歌)を容保に授けていたのだから。
 しかし孝明天皇も1年前に崩御し、すでに亡い。京都守護職遂行のため会津藩領では租税が厳しく取り立てられたことも、その後の会津の苦悩の一因となる。
 5月、奥羽と北越の諸藩は交戦を避けるため「奥羽越列藩同盟」を結ぶ。会津・庄内藩の救済を新政府に求めるが、奥羽鎮撫総督は嘆願を却下。同盟は、やむをえず軍事同盟となる。新政府軍は迅速で巧みだった。列藩同盟の諸藩は抗しきれず離脱していく。
 8月、新政府軍は会津に侵攻。街道を封鎖され包囲された会津藩は孤立し、白虎隊の少年たちの悲劇に伝承されるように、壮絶な戦いののち、9月22日、降伏した。翌年5月、北海道箱館(現在の函館)で旧幕府軍が壊滅して戊辰戦争は終結する。
 勇壮な美を誇った鶴ヶ城は、新政府軍の砲列50門から各50発の弾丸を撃ちこまれ、天守の鯱(しゃち)も失った。崩れんばかりの姿を古写真に残し、明治7年、破却され、まさに荒城となる。土井晩翠の『荒城の月』の舞台のひとつで、本丸跡には詩碑が建てられている。
 城郭ファンの筆者は、その古写真に胸を痛めずにいられない。だが、そそりたつ石垣、堀、天守台は雄姿をとどめ、過ぎし日の栄華と古城の哀感を語り、魅せられるばかりだ。天守は1965年(昭和40)に復元された。
 ある日、ただ1基現存する鶴ヶ城の殿舎・御三階(ごさんかい)を見ようと、移築先、市内七日町(なぬかまち)の阿弥陀寺に足を向けた。古色をたたえる建物に往古がしのばれ、しばしたたずむ。境内に新選組副長助勤だった斎藤一(はじめ)の墓がある。新選組は京都守護職・松平容保「預かり」の身分で活動した。
 一は鳥羽・伏見戦から各地を転戦。会津戦では負傷した土方歳三に代わって指揮を執り、藩が降伏しても戦い続け、容保の使者の説得でようやく刀を引いたと伝えられる。一の墓のかたわらに「明治戊辰戦没殉難者」とだけ刻まれた石柱が建つ。戊辰の戦に散った1281名の藩士が埋葬されているという。
 会津には、「朝敵」「賊軍」の烙印を押されながらも、旧幕府への忠誠心をもって戦った辛い記憶が今なお残る。そのひとつが新政府による埋葬禁止令だ。戦死者の亡骸は野辺に放置されたと伝えられてきた。
 筆者も、「新政府の目を盗んで、ここに亡骸を葬った」と語り継ぐ人に会っている。昨年、新政府が埋葬を命じた文書が発見されたという。だが城下の人びとは、埋葬しきれない亡骸をねんごろに葬ったにちがいない。
 過酷な内戦のすえに成り立った明治だが、その扉が開かれたのは黒船来航であった。1853年(嘉永6)、ペリーの東インド艦隊は最新鋭鑑4隻を率い、沖縄、小笠原を経て浦賀に来航した。捕鯨船への薪炭給与を求めたというが、実際は英・仏・蘭に対抗するアジアへの最短ルート・太平洋航路の開拓だとされる。
 当時の狂歌は幕府の狼狽ぶりを揶揄(やゆ)する。
   泰(太)平のねむりを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず
 幕府の消極性も批判された。
   いにしえの蒙古のときとあべこべで波かぜたてぬ伊勢の神風
 これは時の幕府老中首座・阿部伊勢守(いせのかみ)正弘への皮肉だ。正弘は35歳。25歳で老中になり、再任ののち27歳で首座になった俊才である。
 ペリー来航に際し、国の将来について先進的な方針をたてた。「開国」して産業を起こし、交易で「富国」を成し、得た財で「強兵」をめざす。200年以上続いた幕府の海禁政策(鎖国)を解く大胆な策を前に、朝廷や諸大名にも意見を求め、有為の人材をどんどん登用する。のちの明治新政府の政策を先取りしていたといえよう。
 正弘は福山藩主(広島県福山市)。藩校では武士の子弟だけでなく、庶民や女子の教育もこころざしていたが、4年後、39歳で急死した。
阿部正弘に心ぬくもるエピソードがある。
 江戸名物の桜餅。その元祖・向島(東京都墨田区)長命寺門前の「山本や」の娘おとよは、錦絵にも描かれる美女である。通りかかった正弘は駕籠を止め、おとよを覗き見た。愛想のいい笑顔、明るい客あしらい、その可憐さにすっかり惹きつけられ、しばしば駕籠を通わせる。
 正室が亡くなり、迎えたばかりの後室・謐子(しずこ)とは、まだなじめない。攘夷か開国かと国論が沸騰するさなか、おとよの愛らしさ快活さにどれほど慰められたことだろう。36歳の恋である。
 正弘は「山本や」に使いをやり「側室に迎えたい」と申し入れた。父親はとうに「老中阿部伊勢守さま」の駕籠だと気づいており、おとよも美男で貴公子と噂の正弘に胸をときめかせていた。正弘の恋はかない、おとよを福山藩の下屋敷に迎えたのである。
 おとよを情熱的に愛した正弘だったが、まもなく病の床につく。謐子はおとよを藩邸に呼びよせ、力をあわせて看病し看取った。謐子とおとよが添ってから、わずか3年後であった。
 歴史にifはない。だが、もし正弘が生きていたら、吉田松陰らが処刑された「安政の大獄」、幕府が莫大な賠償金を支払うことになるイギリスと薩摩藩の「薩英戦争」、長州藩が米仏蘭商船を砲撃した「下関事件」は起こらず、戊辰戦争もなく、平和裏に近代へのステップが踏まれたのではないか、などと夢想する。


2018年9月17日号 週刊「世界と日本」第2133号 より

明治維新150年

今、岐路に立つ「日本外交」

地政学的視野からの国際認識が不可欠

 

元在仏日本大使館公使 東京外国語大学国際関係研究所所長 渡邊 啓貴 氏

パワーシフトと日本外交の環境変化

 今世紀に入って中国の台頭はめざましい。いわゆるパワーシフトの議論だ。その対応には日米防衛協力の強化だけが突出しているばかりで、パワーシフトそのものが世界やアジアの国際構造に与える影響について、その本質的議論は中途半端に終わったままとなっている。
 もちろんその背景には、パワーシフトとはいえ、現実にはアメリカのパワーは揺るぎないという楽観論がある。確かにこの10年や20年のうちに中国が総合力で、アメリカと対等なパワーになると本気で考えている人はいない。
 しかし、中国の台頭による国際秩序の構造的変化が起こり始めているのは確かで、その意味では明治維新以後150年たって日本外交は、アジアにおける歴史的に経験のない新しい事態に直面している。
 歴史的に日本外交はパワーの庇護の下での安定と繁栄を目指すことに概ね腐心し、成功してきた。幕末以前の日本は、「大陸大国」(ランドパワー)中国との朝貢貿易を通した中華圏の構成国だったが、中国の衰退後、日本外交は「海洋大国」(シーパワー)である英米との同盟関係を基軸とするようになった。
 例外的に不幸な時期が、1930年代初めから第二次世界大戦終結までの期間であり、米欧の助力で大陸進出政策を強化した日本は、勢い余って米欧列強と衝突してしまったというのが大筋である。
 英米協調路線というのは、近代以後の日本外交の国益重視のリアリズムだったことは確かで、同時にそれが国際秩序安定にも貢献した。それは大陸の潜在的パワーが脆弱であるという前提があったからだ。その前提が今崩れようとしている。だとすれば、日本外交の再考と軌道修正は不可避であろう。

地政学的に見た日本の位置づけ

 そのためには、広くユーラシアの地政学的視点からの国際認識が不可欠である。
 私たちは日ごろ、日本海の対岸にあるものとしてユーラシア(アジア大陸)を眺めている。日本外交は日米同盟を第一としており、外交的親近感は、むしろ距離では遠い太平洋の対岸であるアメリカの方にある。
 それでは日本海は、日本とユーラシア大陸を分断する海域なのか、それとも両者をつなぐ「内海」のような存在なのか。
 富山県が発行している、日本海を中心にすえた有名な「逆さ地図」というのがある。日ごろ見慣れている、太平洋を中心に東西の位置関係を示すメルカトル図法に対して、この地図は日本海を真ん中に置き、地図の上側に日本列島、その下側にユーラシア大陸を位置づける。
 「内海」である日本海を挟んで、ユーラシア大陸と日本はひとつの経済圏・運輸交通圏として見る方が自然だ。当然、富山をはじめとする日本海側の都市がそのためのハブとなる。
 もともと「ランドパワー(ユーラシアの大国、中国・ロシア)」と「シーパワー(海の大国、米英)」に挟まれた日本は「緩衝国(バッファー)」の位置にある。両者が対立するときには、日本は大陸と太平洋の両方から見た二重の防波堤の存在だ。
 つまり日本外交は、日本を挟むランドパワーとシーパワーとの関係に強く影響される。したがって日本が主体的な外交を展開するのはもともと難しい。
 陸海両パワーの関係が良好であれば日本列島は、交通と商業の要衝地として安定と繁栄の中心地域となるが、両者が対立する場合には、どちらか強い方につくか、きめ細やかな均衡外交を巧みに操っていくしかない。日本外交はもともと他律的性格が強いのである。
 ユーラシア情勢の変容をしっかりと把握する必要性がこれまで以上に強くなった。日本にとってパワーシフトは極めて深刻な事態なのである。

開かれた「ユーラシア+太平洋」

 しかしそのことが十分には意識されていないのが現状だ。冷戦終結後1990年代、2000年代前半に日本外交がユーラシアに注目した時期があった。しかしその後の日本外交は、対中国・北朝鮮外交を最優先させる立場に集中している。
 本年1月の河野外務大臣の国会演説は、日米同盟強化、近隣諸国(中国・韓国・ロシア・ASEAN)との協力、自由貿易体制、地球規模課題の解決、対中東政策強化、自由で開かれたインド太平洋戦略の6つの柱を掲げている。
 しかし、ヨーロッパや中央アジアを含むユーラシア全体への認識と見識、その対応については明確には論じられていない。長期的視野からのユーラシア全体の将来的な動向と、それに対する日本および日米同盟の対応は明確ではない。

日本外交の論点

 今後の日本外交は、ランドパワーとシーパワーの間で、様々な不可測的要素を考慮しつつ、正確な現状把握を通して柔軟かつ多角的に対応していく発想を持たねばならない。筆者なりの表現で言えば、それこそ真の意味での「リアリズム」である。
 本年初頭以後の米朝関係をめぐる議論の中で、日本外交のスタンスが不明確であることは世界のメディアが指摘したことだったが、背景には日米関係のなかで自己完結しがちな日本外交に対するじれったさがある。日本外交には柔軟な発想からの自立した見識が求められる。そうした見識による外交は容易なことではない。しかし、そのために努力する姿をまず世界に明らかにすべきである。
 そのための鍵はどこにあるのか。
 日本は世界有数の総合的国力を有する安全な国として高い信頼を得ている国だ。「信用性(クレディビリティー)」を基礎にした良いイメージをもつ国、「国家ブランド力」の高い国といえる。
 そのような国が、国際秩序の安定(グローバル・ガバナンス)のために、長期的かつ広範な視野からの構想をいかに示していくのか、それこそ今日の日本外交の真の論点である。
 これは理想論だが、そのための日本に対するアジア諸国の期待は大きい。それは容易ではないが、日本はそれを担うべき立場にある。今世紀に入って日本が中心となって称揚してきた「人間の安全保障」概念の定着は、日本の平和国家としてのブランド力の成果だ。
 「自由で開かれたインド・太平洋」は同盟戦略上重要だが、同時に日本外交の立ち位置から、その射程はユーラシアや世界の安全と平和のための広い視野を持ったものである必要があるだろう。さもなければ、中国を含むアジア諸国に対する日本外交は、普遍性のない説得力に欠けた一方通行的な外交にしかならないであろう。
 地政学的なリアルポリティーク(現実的・合理的な政治)の上に立ちつつ、同時に自らの利益の追求だけにとどまらない。普遍的な価値を相伴った日本外交は「真の現実主義」でもある。
 日本が近代化して150年がたち、太平洋戦争という過去の轍(わだち)を克服し、成長した姿をどのようにして世界に見せることができるのか。日本外交は今、岐路に立っている。


2018年8月1日号 週刊「世界と日本」第2130号 より

明治維新150年

波乱の歩み、バトンは新天皇に

 

文教大学名誉教授 宮本 倫好 氏

 来年春、平成が終わる。明治維新以来の150年は、4人の天皇がその地位にあったが、私は半分を優に越す年数を生きた。大戦と敗戦、廃墟からの復興、躍進、停滞という最も激動的であった昭和のほとんどを体験し、大戦の償いとともに、成熟国家を模索した平成もほぼ見届けた。それは普通なら数世代分に匹敵する得難い体験の集積でもあった。

《みやもと・のりよし》 1930年和歌山県生まれ。神戸外国語大学英米学科卒。コロンビア大学修士課程修了。フルブライト・スカラー。産経新聞・ロンドン、ニューヨーク特派員、編集委員室長などを経て文教大学教授に。理事・国際学部長、副学長を経て現在、名誉教授。他にスピルハレット大学名誉客員教授など。『アメリカ民族という試練』(筑摩書房)、『大統領たちのアメリカ』(丸善)など著書、訳書多数。

 明治は「欧米の植民地か、近代国家への脱皮か」という厳しい選択の中で幕を開け、世界に類の少ない成功例として、新国家への建設を軌道に乗せた。しかし、その道を驀進(ばくしん)する中で、将来の滅びの萌芽を内に抱えていたのは悲劇だった。
 明治はその統一新国家の中心に天皇を据えた。道徳的、儀礼的権威を維持し続けてきたのが天皇家だ。明治維新は幕府の上に立つその権威を利用して、攘夷という強烈な酒精分で民衆を酔わせ、倒幕に成功した。下級武士たち中心の新政権にはしかし、新国家の明確な青写真はなかった。ただ討幕に成功すると、攘夷の方針を180度切り替えて開国し、欧米列強を急追する。その手口は手品のように鮮やかだった。
 まず登場するのが岩倉具視を団長とする欧米視察団。「世界のどこに新国家ができて早々、革命の主力が外国視察に出かける国があるか」と司馬遼太郎は半ばあきれ、半ば感動的に書くが、このナイーブなまでのひたむきさは、以来日本人の骨格の重要な一部を形成する。
 その結果、モデルに選ばれたのが議会制民主主義国の英米ではなく、帝政プロシャだ。廃藩置県という第2の革命にも成功し、憲法も制定して、国民国家の成立という最大の課題を果たす。順調に国力を充実させた日本は、日清、日露の戦争にも勝利して、世界の強国への道を確実なものとする。
 この時の驕(おご)りが、後年無謀としか言いようのない太平洋戦争突入の遠因となった。その背景には、自己過信の軍部が天皇の権威に直結する統帥権、帷幄(いあく)上奏権などを得て、議会や政府を超えた独裁権力を確立した。
 必然的な帰結が史上初の敗戦だったとすると、明治の功業はいったん無になったのか。私は戦後の旧制中学の歴史の授業で、後年有名な大学教授になった教師から「明治維新の不徹底さを今度の敗戦で完成できる」と教えられた。
 敗戦処理の最大のポイントは昭和天皇の戦争責任問題だった。私個人の感想は、当時の南原繁・東大総長の次の言葉に尽きる。「昭和天皇には法的にはともかく、道義的には戦争責任はある。しかし天皇ご自身は、それを十分ご承知だと思う」。
 降伏直前のギャラップ調査では、米国民の計70%が「天皇は処刑または終身刑、あるいは国外追放に値する」と答えた。米世論は天皇が戦争の最高責任者であると認めていたのだ。
 これに逆転の影響を与えた一人が戦前の10年間、最後の駐日大使だったジョセフ・グルーである。戦争勃発後半年間を米大使館で幽閉されたが、帰国後、「天皇は戦争を望んでいなかった。単なるシンボルに過ぎず、真珠湾攻撃にも責任がなかった。戦後の日本の再建には、天皇制は不可欠」と主張し続けた。
 また戦後、天皇と単独会見したマッカーサー司令官が、天皇制存続に対し、米政府に与えた助言も決定的だった。「全責任は私にある」とする昭和天皇の潔いご発言は、総司令官を心底揺すぶった、と回顧録にある。
 私が昭和天皇のお姿を拝見したことは2度あった。1度は戦後の全国ご巡幸で郷里に来られた時だ。「天皇は国民に、『すまなかった。頑張ってくれ』」というメッセージを、内心で懸命に送っているのではと、現場で感じたものだ。
 2度目は、戦後30年に当たる1975年のご訪米に同行取材した時だ。これは実質的に戦中の日米関係を清算する、いわば「謝罪旅行」であり、日米新協調時代の幕開けに、と両国政府が綿密に仕組んだものだった。
 まず訪問されたディズニーランドで、昭和天皇、皇后の席へ数人の米国人の子どもたちが集まった。すると天皇は、そばに座った子どもの頭を懸命に撫でた。それは微笑ましい光景だったが、いかにもぎごちなかった。
 他人の子どもの頭など撫でたことはなかったであろう天皇にすれば、ぎごちないのは当然だ。だが私は「こうすることが日米親善になる」と信じ切って、懸命に努めているのであろう天皇の、愚直なまでの姿に感動した。
 ホワイトハウスでの大統領主催の晩さん会では、昭和天皇は「先の大戦への反省」を、とつとつと述べた。翌日のヤンキー・スタジアムでの野球観戦では、天皇来訪のアナウンスに、中年男性客が大声で叫んだ。「よう来たのう。わしゃ、その勇気には感服したわ」。多少の皮肉はあったが、拍手もわき、「もうこれで、戦争のゴタゴタはケリにしよう」という米国民衆の率直な思いがこもっていた、と私には思えた。
 間もなく終わる平成の現天皇、皇后のこれまでの歩みは、国民のための祈りを重視し、ストイックな公務への姿勢が目立った。広島、長崎、沖縄、サイパンなどの戦跡ご訪問には、先帝の戦争責任への償いの気持ちがよく表れていると思うし、震災などの被災地ご訪問では、時には地べたに座られて、被災者と同じ目線で慰められる。これは新しい皇室像を自覚されたお姿であろう。
 皇后さまと親交のある作家・末盛千枝子さんが書いていたが、平成26年の天皇の心臓手術後、皇后さまと二人で葉山を散歩されていた時のこと。勤務途中の男性が車を止め、道を横切ってきて「陛下、およろしかったですね」と明るく声をかけ、そのまま車で走り去った。この時皇后さまは「しみじみとした幸せを感じた」と述べられた。現在の国民と皇室の関係が凝縮されている話だ。
 両陛下が求め続けられた新しい皇室像。「武力を持たない天皇制は日本人の知恵の中で一番聡明なものだった」とは、戦前の皇国史観を壮大な虚構と見る司馬遼太郎の天皇観だ。思想家の内田樹は、「政治権力と天皇制の持つ道義の力の二原理が併存し、中心が二つの楕円的な仕組みは、生命力も復元力も強い。日本の統治方式は一つの発明だ」といっている。
 やがて平成が終わり、維新以来150年の波乱の実績の上に、バトンは新天皇に引き継がれる。新しい天皇制の定着を心から望みたい。


2018年7月16日号 週刊「世界と日本」第2129号 より

明治維新150年

真摯な検証作業で歴史を正せ

近代化のスタートは幕末だった

 

大阪学院大学 経済学部教授 森田 健司 氏

 改めて言及するまでもなく、明治維新という単一の歴史的事件は存在しない。我々は、江戸幕府が崩壊してから、明治新政府の統治権が確たるものになるまでの、一連の出来事を、便宜上そう呼んでいるだけである。しかし、「明治という元号」に改められてから、今年が150年目に当たるということは間違いない。このタイミングに、当該期を再確認することは、国の行く末を考える上でも、極めて有意義であると思う。

《もりた・けんじ》
1974年神戸市生まれ。京都大学経済学部卒。同大学大学院人間・環境学研究科を経て、現職。博士(人間・環境学)。専門は社会思想史。特に、江戸時代の庶民思想の研究に注力。著書に『西郷隆盛の幻影』、『江戸の瓦版』、『明治維新 司馬史観という過ち』、『石門心学と近代』、『外国人が見た幕末・明治の日本』など多数。

 幕末・維新期の実相を知る上で、最も大きな障害となるのが、当該期を舞台としたフィクションの数々である。そこでは、激動の時代の中で波乱の人生を送る、極めて個性的なキャラクターたちが活躍する。
 それは例えば、坂本龍馬であり、桂小五郎であり、西郷隆盛であり、大村益次郎であり、勝海舟である。困ったことに、創作されたキャラクターたちは、確実に実像を上書きしていく。だから、相当自覚的にならない限り、当該期の実相に到達するのは難しいのである。
 例えば現代人の多くは、当時の国際環境からみて幕藩体制は「旧き悪しき」ものであり、近代的体制への転換のため、幕府は倒されたと認識しているはずである。身分制度から人々を解放し、個人の能力に応じて仕事を選択する世を招来するためには、幕府を転覆させなければならなかった、と思っている向きも多いだろう。しかしこれらの話は、史実を参照すれば、単なる錯誤であると判明する。
 実力主義による積極的な人材登用が始まったのは、阿部正弘が老中首座に就いた1845(弘化2)年以降のことであり、明治に改元される、はるか以前の話である。また、黒船来航の後は、阿部はさらなる改革を実行している。
 具体的には、大船建造の解禁や、海岸の防衛強化、講武所と蕃書調所の設立などである。阿部の改革は、何より列強の動きを意識したものであり、これ以降の日本は、さまざまな意味で急速に近代化していく。
 つまり、近代化自体のスタートは、明らかに幕末である。しかもこれは、専ら上からの指令に従った近代化などではない。職人たちの高い技術、整備された陸運と水運、高い識字率と活発な出版文化など、戦の絶えた時代を通じて成長し、蓄積された諸条件によって、はじめて可能となったものなのである。
 フィクションによって広まった誤解の一つに、日本初の株式会社は坂本龍馬の海援隊だ、というものがある。これは、資本と経営の分離、および出資者に収益の一部を還元することから考えられた仮説だったが、その仮説が無批判に国民的作家の作品に取り入れられ、既成事実化したものである。
 株式会社という先進的な組織の祖が、薩長に近しい龍馬であるとの説は、確実に維新にポジティブなイメージを付与した。
 しかし、実は「海援隊=株式会社」説は、発案者である経営学者の坂本藤良によって、明確に否定されているのである。彼は、海援隊の前身である亀山社中の「社中」の語から、このような誤解が始まってしまったと告白している(『幕末維新の経済人』)。加えて、もし、正当に日本初の株式会社というものを選定するならば、それはおそらく1867(慶応3)年6月に創設された兵庫商社だろうとも主張しているのである。
 兵庫商社は、役員を決め、定款を備えた、貿易を主体とする商社である。設立したのは、幕臣の小栗忠順だった。日米修好通商条約批准のために渡米し、彼の地の状況を視察したこともある小栗は、横浜造船所の創設などにも取り組み、日本の近代化に尽くした。しかし、その功績は十分には評価されていない。それは、彼が強硬な佐幕派だったことによるものだろう。
 新政府軍に対して徹底抗戦を主張した小栗は、それによって免官となり、領地である上野国権田村に帰る。そこで、無抵抗なままで新政府軍によって捕縛され、弁解も許されず斬首された。明治新政府にとって、幕府を強力な中央政府として再興させた上で、近代化を進めようと考えていた小栗は、最も目障りな存在だったからである。
 戊辰戦争において、新政府軍の合理主義が、旧幕府軍の非合理主義を圧倒したとの見方も、フィクションを通じて日本に定着している。しかし、小栗のことを思うとき、これほど屈辱的な話もないだろう。
 新政府軍が各藩を恭順できた理由は、天皇の威光を利用したことに加え、最先端の兵器を数多く所持していたからである。合理主義などとは一切関係がない。事実、最新兵器を十分に備えていた庄内藩は、最後まで新政府軍に負かされなかった。明治を日本近代のスタートとするための論理は、どれも瑕疵を抱えている。
 明治に入って以降、日本は「徳川家の専制」から解き放たれ、民主的な体制に転換できたのだろうか。とんでもない、薩長両藩出身者による藩閥政治が始まって、日本の上流階級がただ入れ替わっただけである。
 その極みが、一部官僚への権力集中、いわゆる有司専制だろう。莫大な給金を得て、薩長閥はどんどん貴族化していく。民主的でも、実力主義に基づいたものでもなく、出身地による露骨な差別が始まったのである。
 明治政府の歪みが理解できる証拠がある。明治時代を通して、内閣総理大臣となった人々の出身地は、山口(3名)、鹿児島(2名)、佐賀(1名)、および京都(1名)のみなのである。なお、京都出身の首相は第十二代西園寺公望で、彼は戊辰戦争で功のあった公家の出の人物だった。
 江戸を「徳川家の専制」というのならば、明治は「薩長の専制」の時代である。五箇条の誓文の精神は、明治政府において遂に実現することはなかった。
 明治改元から150年の今年、我々が行わなければならないのは、明治の国づくりへの手放しの礼賛などではない。維新という麗しい呼称の下、理不尽に失われたもの、誤解によって歪んだものを、真摯な歴史の検証作業によって、復活させ、また正すことである。
 それこそが、日本という国に正しい意味での尊厳を取り戻すものになると信じている。


2018年5月7日号 週刊「世界と日本」第2124号 より

明治維新150年
「岩倉使節団」を改めて考える

 

日本よ 新しい“自我形成”に目覚めよ

 

拓殖大学学事顧問 前総長 渡辺 利夫 氏

 私どもは自分がどんな顔の人間であるかを知っている。自分を「鏡」という他者に投影して、みずからを確認しているからである。自己が他者をもたず完全に孤立している状態にあっては、自己がどんな存在であるかを確認することはできない。それゆえ「自我形成」もあり得ない。私どもは他者が自分をどう認識し、評価し、対応するのかに応じて、自己を初めて悟り、自我形成をつづける、そういう存在である。

《わたなべ・としお》 1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て現職。外務省国際協力に関する有識者会議議長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『放哉と山頭火―死を生きる』(ちくま文庫)など多数。

 日本は、江戸時代を通じて平穏な時代を過ごし、欧米のそれに勝るとも劣らない成熟した社会と文化をつくりあげてきた。しかし、この平和の中で、日本は欧米列強に競合できるような産業力や軍事力を整えてきたわけではない。
 「海洋の共同体」としての日本は、四方を海で囲まれ、海によって守られ、外敵の存在を意識することなく、国内の統治に万全を期していけば、平和はおのずと守られてきた。少なくとも幕末まではそうだった。「自国とは何か」という自我は薄くしか形成されてこなかったのである。
 アヘン戦争を経て大国・清国が、列強によって次々と蚕食(さんしょく)されていくさまに目を見開かされ、ペリーの黒船来港によって強烈なインパクトを受け、日本の指導者は新しい自我形成を余儀なくされた。
 列強の目に映る日本は、文明国ではない。だからこそ、不平等条約を押しつけられたのだ。危機から日本を脱却させるには主権国家としての内実を整備し、みずから文明国となるより他に道はない。そういう新しい自我が形成されたのだとみることができる。
 他者を徹底的に正確に認識し、そこから新しい自我を生み出そうとする意思において、明治維新の指導者にはきわめて強いものがあった。そのことを端的に示すものが岩倉使節団の欧米派遣である。
 それは外務卿である岩倉具視を特命全権大使とし、副使に参議の木戸孝允、大蔵卿の大久保利通、工部大輔の伊藤博文、外務省次官補格の山口尚芳の4名、さらに、専門の調査事務官、随員、留学生43名を加えた総勢108名の大デレゲーション(派遣団)であった。
 明治維新政府の中枢部がデレゲーションを組んで、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシア、その他、全12カ国を、実に1年9カ月にわたり訪問し、精細な観察を繰り返したのである。新生明治政府それ自体が、ユーラシア大陸を長躯一巡したかのごとき壮図であった。
 岩倉らの出発した明治4年(1871)11月といえば、その7月に、不測の事態を想定して7000名に及ぶ御親兵を集めたうえで、その遂行によって、初めて明治維新がなったと言っていい廃藩置県を敢行、幕藩体制を切り崩したばかりの時期であった。
 これに不満をつのらせる旧藩の諸勢力が、各地で反抗の刃を研いでいた。新政府の中枢がこぞって2年近くも日本を留守にすることなど、想像さえできない不穏な時期であった。しかし、明治政府はそれをあえてやったのである。
 廃藩置県こそが明治維新の維新たるゆえんである。鎌倉幕府の源頼朝によって始められ、江戸時代にその完成期を迎えた幕藩体制と呼ばれる、徳川幕府を中央政府とし、二百数十の、多分に自立的な諸藩を配して形づくられてきたシステムの大転換である。
 中央集権と地方分権の均衡のうえに成立してきたこのシステムを、一挙に廃止して中央集権的国家とする。府県を設置して中央政府の意を体した知事を中央政府から府県に派遣し、この知事が全権をもって地方を統治するという「革命」であった。
 それにしても、この時期、なぜこんな大きなリスクを賭したデレゲーションを明治新政府は列強に就航させたのだろうか。他者たる文明国を、政府のトップが身をもって徹底的に研究し、自我形成をより優れたものにするためであった。
 維新に成功したとはいえ、主権国家の国づくりのテキストは何も用意されていなかったのである。廃藩置県が成り、旧体制は崩れたとはいえ、どういう国づくりをやったらいいのか、明治政府にはその具体像がどうしてもつかめない。そこで、文明国の文明国たるゆえんを、新政府の執行部が自分の目で観察しようとしたのである。
 幕末に強圧的に結ばされた不平等条約の撤回も、使節団の目的であった。しかし、最初の訪問国、米国で不平等条約改正は時期尚早であることにすぐ気づかされる。
 条約改正には、国内統治を完全なものとするための法制度の拡充、生産力と軍事力の増強を図ることが不可欠である。欧米列強と対等なレベルの文明国にならなければ、条約改正は困難だと悟らされたのである。
 使節団は産業発展の重要性を徹底的に悟らされ、さらには共和制、立憲君主制、徴兵制、議会制度、政党政治、宗教など、実に、文明のありとあらゆる側面について学んで、帰国した。この使節団の実感を一言でいえば、文明国のもつ文明の圧倒的な力であったといっていい。
 その後の富国強兵・殖産興業政策が、さらには憲法と議会制度が次々とあきれるほどの速さで実現されていったのには、岩倉使節団の体得した知恵があったからだといっても過言ではない。
 これほどの「自我形成」を往時の日本の指導者はやったのである。
 米国の覇権力が後退し、中国の膨張がとめどもない。朝鮮半島は一触即発の様相を呈している。この状況にあってなお日本は、憲法第9条の改定にすら逡巡し、「モリカケ」だの「日報」などをテーマに政争をつづけてやむことがない。
 「事の軽重」がわからなくなってしまうほどに、日本の政治は劣化してしまったのか。日本よ、新しい自我形成に目覚めよ。


【AD】

国際高専がわかる!ICTサイト
徳川ミュージアム
ホテルグランドヒル市ヶ谷
沖縄カヌチャリゾート
大阪新阪急ホテル
富山電気ビルデイング
ことのは
全日本教職員連盟
新情報センター
さくら舎
銀座フェニックスプラザ
ミーティングインフォメーションセンター